2008-10-15

支離滅裂ですが  NO 2292


 仏教に誰もが知る「生老病死・愛別離苦」という「四苦八苦」を意味する言葉がある。この世に生を享け、時間の流れだけが平等に進む人生にあって、どうしても避けられない現実として誰もが受け入れなければならない問題である。

 我等団塊世代にあっては、この言葉が日々に切実になり、不治の病と宣告された友人が入院先の病室で「覚悟したよ。悟りの境地に至ったよ」と発言し、横にいた奥さんを泣かせた光景に出会ったのは最近だった。

 葬儀という仕事に従事しながら冒頭の言葉を思い浮かべると「諸行無常」の文字に「諸行無情」と当て嵌めたくなることばかりで、人を送る中でいつか自身が送られる日が訪
れる意識が強まってくるものである。

「人は、長生きをすることを望み、しかも老齢を恐れる」という言葉もあるし、「出会いは偶然、別れは必然」という言葉などに人の世のすべてが凝縮されているような思いを抱く。

 人を送る別れにあって悲しいのは出会ってからの「思い出」があるからで、終焉の大切な儀式のひとときの中にも新たな「思い出」が生まれ、それが人生最後の「形見」として語り継がれることになると言えるだろう。

  我々葬儀の司会者は、ある瞬間から「ご遺族」と呼ばれるようになった「ご家族」から思い出話を拝聴し、故人と送られる人の両者の心残りなどを少しでも軽減 できればと考えながらマイクを握るが、それらを紙面に文章化して読んで語るよりも、ご導師の法話やご遺族の謝辞から感じる正直な思いが自然に言葉となって 出てくることにこそ司会者の真髄があると思いたいものである。

 弊社に全国からやってくる司会者達、そんな人達に研修する中で確認しながら問いたいのは、上述のような「アドリブ」が出来るか否かということで、ちょっとした言葉が不幸な空間の中で、不幸でないというひとときとして与えられることが大切だと教えている。

「昨 夜のお通夜で、ご導師のご法話の中に****のことがございましたが、拝聴されていたご弔問の皆様が頷いておられたのが印象に残っています」なんてコメン トも重要だろうし、ただ「開式」「閉式」だけの進行係的な司会なら、これからの時代の葬儀には歓迎されないと断言するところである。

 非 常に僭越なことだが、お通夜でお寺様がご退出された後、弔問の皆様に対する謝辞の中で「説教」みたいな言葉を発することもある私だが、それは、「命の伝 達」という葬儀の意義や、皆様もやがてこの日を迎えられますよということなどを中心にして、故人のご逝去が、命の尊さと送る私達が生かされていることを気 付かせてくださったことをやさしく訴えている訳である。

 個性化、多様化という潮流に対応を余儀なくされている我が業界だが、悲しみとは万国、万人に共通する人間の感情で不変あることを理解したいものである。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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