2004-01-05

一期一会   NO 658

今日は、「苺の日」「囲碁の日」だそう。私も「ヘボ碁」を打つが、昨年、囲碁好きな方の無宗教葬儀を担当したことを思い出す。

 祭壇横に愛用されていた碁盤と碁石を置いたが、貝である白石が磨り減って美しい模様だったことも鮮明に覚えている。

 それから二ヶ月ぐらい経った頃、囲碁をご趣味とされたお爺ちゃんの葬儀を担当したが、このお爺ちゃんに指導された3人のお孫さんたちが、関西棋院の「三兄弟」と称されるプロ棋士で印象に残っている。

 碁は「生き死に」に「白黒」、どちらも私の仕事に大きく関係しているようで深い興味を抱いているが、教育テレビのNHK杯を見ながらプロの解説を聞いていると、その奥の深さとプロの凄さを強烈に認識させられることになる。

 さて、写真は、故人の人生を表現するメモリアルコーナーのひとこまだが、式場の外に設置する場合、雨や風の対策も大切で、安全を重視しボードそのものを特注したが、これが想像以上に重くてスタッフから非難を浴びた。

 「それだけ人の人生が重いと考えろ」と反論したが、持ってみると本当に重く、<悪いな>と心の中で謝っている。

 通夜での弔問者、そして葬儀の会葬者たちがボードを見ながら会話をされている。それは、不幸な場でホッとする環境空間につながるよう。

「これ、ご夫婦旅行ね。こっちは町の懇親会。あの時のカラオケの声を覚えているわ」なんて言葉は、故人の幸せな表情から感じ生まれること。それらが後日、遺族との思い出話に花を咲かせる「種」になれば、悲嘆ケアで重要な「思慕」という癒しの効果にも。

 スタッフたちは、そんな思いで「重い」ものを運んでいる。

 このメモリアルコーナーだが、「単なる展示会にするな」と厳命しており、人生の思い出がいっぱい詰まったアルバムの「重さ」を教え、そこに重要な「命の伝達」があることを皆さんにご理解いただけるよう、添える文字表現の「恐ろしさ」と「大切さ」を力説している。

 通夜の場の追憶ビデオによる偲ぶひととき、そして、葬儀の中での追憶のひととき、両方の異なるナレーションを創作しなければならないが、そんな私の仕事も徐々に軽減されつつある。なぜならスタッフが育ってきてくれたから。

 「ナレーションの創作は、自身が喋りやすい言葉表現を用いなさい。ただ忘れてならないのは、目で見る文字が耳で聞かれる方々に伝わるかということ。それだけは徹底して考えなさい」

 そんな指導が「かたち」として感じられるようになってきた。後はナレーターとしての技術向上だが、その背景にある重要な「取材時のコミュニケーションづくり」に時間を掛け、出来るだけ心残りが生まれないように努力しているようだ。
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