2008-11-25

歴史のページから NO 2319


 東京オリンピック開催に合わせて建設された新幹線だが、NHK「プロジェクトX」で建設までの大変な苦労を知ったのは数年前のことだった。

出 来るか、出来ないか、可能か、不可能かで未知の世界に取り組んだ夢の実現、そこには秘められた多くの人間ドラマもあったが、開業から今日まで乗客に対する 人身事故が発生していないということは素晴らしく、開発に取り組まれて今は故人となっておられる方々、そして現役としてご活躍のの皆さんに心から賛辞の拍 手を送るところである。

 営業運転が始まったのは昭和37年、当時私は15歳で高校1年生だったが、開業時から数年は東京と大阪を「こだま」が5時間、「ひかり」が4時間で結んでいた筈で、それでも初めて乗った時のスピード感には驚嘆した思い出がある。

 その初代の「0系」がついに引退するそうだが、東京から熱海まで利用した「こだま」で車内に忘れ物をした苦い体験もある。

  数年前の確か2月の出来事だった。夕方、東京の八重洲の地下街で土産物を買っている時に関東在住の娘から電話があり、「疲れているようだし温泉にでも寄っ たら!」と言われ、熱海の旅館を予約してくれていたので甘えることにし、乗車券を変更して「こだま」に飛び乗ったのだが、熱海駅に到着してホームに降り、 階段を下っている時に出て行った列車の音に何やら<!?>の感じを抱き、自身が<なぜ、こんなに寒いんだ?>で気付いたのがコート、手袋、マフラーを網棚 の上に置いたままだったこと、すぐに娘に電話で座席番号を伝えて「JRに連絡を」と頼んだのであった。

 旅館に着いた頃に返信の電話が。「車掌さんが保管、明日、名古屋駅の忘れ物預かり所へ」ということで一段落、コート嫌いの私らしいミスだが、いつも離さないマフラーを忘れるとは衝撃だった。

  さて、「0系」に関して恥ずかしいミスの思い出をもうひとつ。東京で講演を済ませて「のぞみ」に乗車、主催者側から頂戴したお土産を網棚に上げ、駅弁を食 しながらの缶ビールがいけなかった。静岡駅を過ぎた頃から疲れで熟睡したようで、朦朧としている中に「新大阪」という車掌さんの声が耳に入り、すぐに外を 見たら新大阪駅に着いている。<しまった!>と、足元に置いてあったカバンを提げて急いで飛び降り、エスカレーターに乗って数段下がったところで思い出し たのが「お土産」のこと。頭に浮かんだのは熨斗に主催者側の名称が記載されているという問題。そこで急遽逆走してホームに戻り、乗ってきた10号車に飛び 込んだら扉が閉まって発車した。

 次の停車駅は岡山である。しばらくすると車掌さんが席に来られ、「お忘れ物があったようですね」と言わ れ、持っていた私の乗車券に「誤乗証明」となる押印をしてくださり、それによって岡山から戻る乗車料金が免除、時刻表で教えて貰った岡山発最終の「こだ ま」で帰阪したが、あの時の疲れがしばらく続いたことを憶えている。

 齢を重ねるに連れ社会が変るのは世の常、新幹線にあっても現在の主流である「700系」が「0系」のように何れは引退する時期を迎えることも必然だが、それは、私が随分と長生きをしなければ見送れないだろう。 

「0系」よ、ご苦労様。そして多くの思い出を有り難う。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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