2013-02-14

回想の続き  NO 3196


  昨日の号でアルバイトのことを書いたが、青春時代は毎週土曜日のスキーバスの助手が有り難いアルバイトだった。大型観光バスの運転手さんと二人で午後10 時過ぎに出庫、会社などの団体のスキーバスに乗務するものだが、兵庫県の神鍋や戸倉が多く、午前5時頃に到着し、ゲレンデに直行する乗客達を見送り、と乗 務員だけ契約している民宿で仮眠する行程だったが、いつも朝から滑るのが楽しみで、バス会社から支払われるバイト料は2500円。これに途中で立ち寄るド ライブインで「帰りも寄ってね」「次回も来てね」と手渡される心付けが往路復路それぞれ2箇所ずつあり、これで1000円×4回で4000円というのが魅 力だった。

 乗務員に対するドライブインの対応は想像以上のもので、無料で飲食可能となっていたし、お菓子を土産として頂戴することも少なくなかった。

 スキーを楽しんで収入がある。こんな恵まれたバイトは他には恐らくなかったものだろうし、結構楽しんでやっていたが、帰りの助手席では疲れと睡眠不足からから居眠りすることもあり、3回目ぐらいからは午後2時頃にスキーを切り上げるようにしていた。

  助手としての仕事は出発時と到着時の「ソリ」の積み下ろし。それに積雪道路になったらタイヤチェーンの装脱着だが、当時から「お前は普通じゃない」と言わ れたぐらいの車内アナウンスも担当しており、女性ばかりの団体ではプレゼントをいっぱい貰ったことも懐かしい思い出となっている。

 前にも書いたが、スノーボードなんて想像もしなかったが、最近では半数ぐらいの人が楽しんでいるそうで、時代の流れを感じている。

 プライベートでスキーに行くのは専ら長野県志賀高原の発哺だったが、技術がアップするとツアーコースやジャイアントコースに挑戦していた。

 丸池でも何度か滑ったが、発哺の七曲りを下ってリフト乗り場の手前で小学生時代の同級生に偶然出会った出来事にはびっくりだった。

 スキー場とは愛着と言うのだろうか、同じ場所に行くことが多く、長年の友人達にもその傾向があるようで、赤倉、野沢温泉などに定宿と決めていたのを知ったこともあった。

  昨号で書いた鉄道料金などの物価が現在と比較したら信じられないだろうが東海道新幹線が開通した昭和39年の東京、大阪間の料金は、運賃1180円、特急 料金は「こだま」が1100円、「ひかり」が1300だったし、当時の都内のタクシー料金は初乗り100円、その後450メートル毎に20円だった。

 因みに昭和39年の公務員の上級初任給は19100円だったし、新聞一部が15円、一か月の購読料が450円となっていた。

 興味深いのは「お札」のこと。昭和21年に100円札で登場した聖徳太子は、その後、昭和25年に1000円札、昭和33年に10000万円札となっている。

 我が家の最寄り駅は大阪環状線の寺田町駅だが、国鉄だった当時の初乗りは10円で、それが20円になったのは昭和41年である。

 小学校5年生から遠方の学校に通うようになったが、子供料金は市バス、市電が10円、環状線なら5円だったことをはっきりと憶えている。

 ネットの広告に「往復新幹線 夜景が魅せる部屋プランで21800円~」というのがあった。どんなからくり計算でそんな金額になるのかは不明だが、何でもありの時代の裏側に秘められた何かがあるのではと冷静に考えることも大切だろう。

  午後から大きな病院で「MRI」検査を受け、夜は前から約束をしていた友人と会食。合同葬のお通夜が行われていたが、問題がないように手を合わせ、男性で あられる故人と葬儀委員長さんに「女性スタッフ達からです」と、「ご仏縁チョコレート?」ぐらいは準備してくれている配慮を期待している。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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