2009-03-13

病室から  NO 2363


 この「独り言」は、私の「生きた証し」いや「生かされた証し」として記してきているが、何日間も更新されないと「?」「!」マークばかりが募るだろうし、取り敢えず正直に
現状について書くことに。

 丁度3年前の今日13日、私は大阪赤十字病院に体重62キロで入院、一週間後の20日に手術、4月初めに退院、その時の体重は58キロだった。

 その後、1年ほどスマートな体型だったが、やがて徐々に太りだし、気がつけば人生最高記録の71キロに達し、メタボ状態でトトロ体型の自身の姿に羞恥と哀れみさえ覚えるほどだった。

 心機一転して減量に努力、やっと66キロ台になったところで今度は予想もしなかった病気に襲われ、今、ある病院に入院、現在の体重は59キロである。

 2月27日未明、自宅1階で就寝中に異変を感じて目覚め、瞬間に<やばい!普通じゃない!>と察知、枕元にあった携帯電話で自宅の番号を打ち込み、階上にいた妻に知らせる行動を取った。

 すぐに1階から3階までの電話のベルが一斉に鳴る。我が家には深夜の電話は普通のこと、友人や知人から会社ではなく自宅に葬儀の依頼電話があるからだが、妻が私が出るだろうと思うと出ないこともあり、それだけが心配な状況だった。

「はい、久世でございます」という余所行きの声、思ったより早く出てく安堵。「おかしい。身体が変だ!」と訴えると、すぐに私の部屋に「どうしたの!?」と飛び込んできた。

「脳の疾患だと思う。救急車を頼む」「分かった、救急車ね。何番だった?」の返しの言葉には唖然としたが、それだけ慌てていた裏付けという出来事だったのだろう。

「近所でサイレンを止めてくれと頼んでくれ」と伝えたら、救急車はサイレンを鳴らす規定があるとのことで却下。電話を切って到着を待ち、その間に妻が取り敢えず持参するものの準備をしていた。

 果たして何分で到着するか。勝山通りの生野警察署の隣にある支局からなら2分、弊社の本社のある今里筋の本局からなら3分、隣接する天王寺区の四天王寺からなら4分と予測していたらサイレンの音が聞こえ、驚くほど早い到着だった。

 体験したことのないような猛烈な喉の渇き、妻に「水を一杯」と頼んで口にしたのが大問題、すぐに咽て戻してしまい、それがその後に於ける重大な併発につながってしまったのである。

 ブーツの上からビニール袋を被せた3名の退院が私の部屋に到着、その姿にドラマで見る警察の鑑識課みたいと思いながら容態を訴え、すぐに担架に包まれるようにして救急車に運ばれた。

  すでにあちこちの病院とのやりとりが始まっている。次々に満床という返事で前進せず、真向かいの医院の先生の携帯電話にも縋ってお願い申し上げたが、残念 なことに全てがダメ。そんな時、隊員が「高槻市の病院なら可能です」との提案、しかし「出来たら大阪市内で」と妻の意見で却下、どこでもよい、早くしなけ れば病状が悪化して取り返しがつかないではないかと思う私だが、相変らず吐き続けて言葉を発することが出来ない状態だった。

 ある病院の名前を耳にしたのはそんな時だった。車内で約25分の経過、それは最近に問題化している救急車難民そのものの体験で、脳疾患や心臓疾患なら間違いなく寿命を左右される大問題である。

  やがて運び込まれた大きな病院で救急処置を受け、入院。前述の「水」が引き金となった肺炎を併発、約2週間も高熱が続き、何も口にすることが出来ず点滴生 活を余儀なくされ、日に20本、15本、10本と徐々に本数は減っていったが中々回復せず、最も苦しい入院体験ともなった。

 今、病魔が私の声を奪おうとしている。珍しい声と言われたのが封印されてしまうとは耐え難いこと。懸命に取り戻そうと頑張っている。

 今、病魔が私から食事という楽しみを奪おうとしている。前述の「水」を吐いたのも、すでに「嚥下」という飲食物を誤飲させる症状が表れていたからで、気管支ではなく食道へ誘う努力をしている最中である。

 今、病魔が私の目の視力を低下させ、複視という現象を引き起こしている。これは、青春時代の交通事故の際と同じ兆候、その時にどのように対処したかを思い出しながらリハビリ中。

  今、病魔が私の右手の全てパワーを消し去ろうとしている。まるで肩、肘、手首を壊れた起重機のように誤作動させ、予想もしないところまで動かしてしまうの だ。このパソコンを打つのも大変。押すべきボタtyンを絞っても前後左右に3つぐらいずれてしまうのだから始末が悪い。ああ、嘆かわしき哉である。

 今、病魔が私の左半身から熱い、冷たいという温度感知を一切奪い、痛みさえ感じないという不思議な状態をなっている。果たして、これは完治することが出来るのだろうかと不安である。

 今、病魔が私の足から歩行という大切な機能を奪おうとしている。やっとベッドの上に座ることが出来、次に立つことに挑戦中だが、果たして介添えなしで歩くことが出来るのだろうかと現実に苦しんでいる。

 理学、作業、言語という三つのリハビリ、それぞれに素晴らしい女性の療法士が存在して指導くださっており、日々に僅かずつながら好転しつつあるようだ。

 30代の頃に書いた小説「七万歩才のあの世の旅」の中で、主人公が「三途の川」のところで「奪衣婆」と「懸衣翁」と対談する場面があったが、今回もそのところまで行って戻って来たような体験だった。

「やり残したことがあるだろう。やり遺したとの違いを考えよ!」とのお言葉だったが、戻って来た幸運を何かの「かたち」にしたいというのが私の願い。

  映画「送り人」が話題になったが、あの時点では我が業界には話題性けで本物の文化には至っていないと考えている。なぜなら「納棺夫」であって「納棺師」で はないからだ。師と社会認識されて初めて葬祭業の文化が認知されるというのが私の考え。それらは30年以上も前に提起していた問題である。

 ご心配くださった方々、誕生日にメッセージを届けてくださった方々に手を合わせます。私はこれまでに何度も奇跡を体験しています。リハビリに精進し、近い将来、皆様の前に颯爽?と姿を見せます。どうか、それまで「そっと」しておいてくださいますように。 合掌

 結びにスタッフの皆さんに。ハードな仕事状況が続いているようだが身体に気をつけ「お客様」ために頑張ってください。車の運転は安全運転で。被害者になるな、加害者になるなの言葉を忘れないように!
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