2003-11-28

孫と癒し   NO 619

師走が目前にやって来る。年々に月日の流れを早く感じるが、この「独り言」を書き出してから余計に強く感じている。

 これは、誰の思いも同じようで、今日の毎日新聞朝刊社会面「デスク」のコーナーに、そんな思いが綴られてあった。

 このデスク担当の方は、「4回目の年男を迎える」と書かれてあったので年齢が分かるが、末文に次のような文章があり、思わず<素晴らしい>と拍手したくなった。

 『この一年、何をしていたのか』と落ち込んだ時は、この呪文で自らを鼓舞しています。『焦ることはない。だって、これからの人生で今が一番若いんだから』

 人生の「終(つい)の儀式」に携わる私。この言葉にグッと感じ入り、脳裏に浮かんだのは孫の存在だった。

 人は、欲望があるから生きることが出来ると教えられたことがある。

幼稚園、小学校、中学校と、孫の成長に思いを託しながら人生黄昏を過ごすことになるだろうが、欲望を出来るだけ謙虚に抑え、今は、取り敢えず小学校入学までと考えた。

 葬儀の司会を担当していると、どうしても故人の孫の存在に心が向かってしまう。これらは、創作するナレーションにも顕著となり、自身に大きな変化が生まれたと実感している。

 時折、ご出棺前に孫さんたちを柩の前に整列させ、「命の伝達式」と名付けたひとときを行っているが、これも、自身に孫が生まれたから始めたこと。

 最近、子供を作らないことを前提に結婚される人が増えているが、孫に送られる葬儀を何度も体験すると、人に生まれ、人を愛し、結ばれて時を過ごし、何時か訪れる伴侶との別れがどれだけ寂しいものか絶対に理解できると確信している。

 愛する人を喪うと「悲嘆」という未曾有のストレスに襲われる。そんな時、家族の存在がどれだけ救いとなるかも知って欲しいし、神前、仏前を問わず、誓いの契りを交わす神仏の前で<子供を作りません>というのはおかしいような気がする。

 今、問題になっている年金ではないが、社会にそんな風潮が当たり前になれば、人類の将来はないだろう。

 自己主義、個人の自由と言えばそれまでだが、人生に於ける生きた「証し」の最たるものは「子供」であるとも考えて欲しいもの。

 その子供に子供が出来て「孫」となる。黄昏に存在する孫、それは、悲嘆を迎える前からの、何よりの癒しであることは確かである。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net