2003-10-31

無  力    NO 591

この数日、大事件の裁判のことが報じられている。小学校乱入、オウム教団、毒カレー事件など、多くの被害者や家族の存在を考えると心が痛む。

 裁判について書く立場ではないが、それぞれの被害者の葬儀が行われた事実を考えると、時空を超えるというのか、「バック・トゥ・ザ・ヒューチャー」の映画のように、タイムスリップが出来ればという世界に逃げ込みたくなってしまう。

 そんな中、日本トータライフ協会のメンバー掲示板に記載された、北海道のメンバーが担当した10歳の少女の葬儀に涙した。

 交通事故で幼い命を散らしてしまった悲しい葬儀について、スタッフたちの心痛をしたためながら、人とは「如何に無力であるかを改めて学んだ」と結んでいた。

 この悲しい葬儀については、協会のコラム「有為転変」に今日から続編掲載されるとのことだが、掲示板の文章から、社会に潜む問題提起を教えられたような気がしている。

 自然に対して「無力」である人間は、もっと謙虚になるべきとの教訓が山ほどあるが、「生かされている」と考える人は少なく、「生きている」という誤解のまま一生を過ごした人が大半で、そんな方々の中に自殺という悲劇も結びつくと言えるかも知れない。

 冒頭に書いた裁判だが、法廷のひとこまをイメージしていただきたい。あなたは傍聴席。前方対面に裁判官が座り、被告人の後ろ姿が見えている。

 検察官と弁護人のやりとりを耳にして、それに対してどんな憤りを感じても、あなたは何もすることが出来ない。それが被害者の遺族の立場だったらどのように思うのだろうか。

 そこには無力という言葉しか当て嵌まらず、虚しさだけの時間が過ぎるだけ。

 検察官、弁護士、裁判官は、それぞれに与えられた権限の中で責務を遂行するが、被害者を元に戻すことも出来ないし、加害者を完全に諭すことなんて不可能だろう。

 それぞれが職務を果たすが、全員が無力であることには変わりがないし、仮に自責の後悔に至った加害者であっても同じなのである。

 上述の少女の葬儀が行われた式場の中を考えてみたい。もう、この世にいない少女の遺影が飾られ、悲劇のすべてを物語る柩が安置されてあり、その前に悲嘆にくれる遺族の存在が見える。

 そこで、参列者であるあなたは、いったい何が出来るのだろうか? どんな言葉で遺族を慰めることが出来るのだろうか? きっと、作法でしかない焼香しか出来ない筈だ。 

 では、宗教者の立場はどうだろう。故人に向かって唱えるお経。その後に行われる説教や法話。時には検察官となり弁護人にもなり、ひょっとして裁判官の役目も負わされるべきかも知れない。

 裁判は、数ヶ月の準備を経て開かれるが、通夜と葬儀は二日後か三日後があたりまえ。参列者全員が無力の世界にあって、パワーを与えられているのは宗教者。その責務の重大さがどんなものかを謙虚に学びたいものである。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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