最古
2024-05-05

昔話  NО 10145

後期高齢者になった私、生きている内に昔話を書いておこうと考え認める

私が生まれたのは昭和22年で生野区林寺でこの世に生まれた。3歳の時に心斎橋へ連れて行って貰ったが、現在の大丸百貨店とそごう百貨店の間で迷子になり今でもある戎橋の横にある交番に保護され、当時の進駐軍のジープで家まで送って貰ったので、近所で大変な話題になった。

私は当時に流行していた「リンゴの唄」が大好きで、近所を訪れて仏壇にお供えがあると歌って貰ってきたそうだが、4歳の頃に伊勢に転居し、家は母の兄が知られる大工だったので釘を一切使わない平屋の家を建ててくれ小学生の3年に大阪に転居するまでそこで生活をしていた。

庭が広くて母が様々な物を栽培しており、ナス、キュウリ、トマト、青唐、ジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ、山桜桃梅などを収穫したことも憶えているし、お茶の葉の新芽を摘んで干したことに
もあった。

前述した家だが、ジェーン台風で屋根を吹き飛ばされてしまったことも憶えている。当時の気象情報はアメリカ軍からの発表で、ラジオで強い亞台風だと放送されていて夕方から親子4人でタンスの横の空間に身を寄せ合って過ごしたが、床や壁の揺れる音が凄まじく、まさに恐怖の一夜だった。

夜明けが近づいた頃に風が強くなり、やがてバリバリという音で尋常でないことを感じたが、外が明るくなった時に天井を観ると青空が見えていてびっくりした。

修復工事が済むまで本家に移って過ごしたが、その時の恐ろしさは今でも蘇る。

私は「お好み焼き」が大好きだが、大阪の生家のすぐ近所にお好み焼き店があり、いつもソースや紅生姜が焼ける香りが漂っていたことを憶えており、母がよく連れて行って貰ったことを思い出す。

椎の実、イチゴ、ヤマモモなどを食べた思い出もあり、私の田舎生活の影響は今でも続いており、昔から交流のある果実店にお願いしたり、割烹をやっている友人が山に行った際に持帰ってくれることも有難い。

3歳の頃の生活で、行商に来る水飴売りが大好きで、その茶色の水飴を探したが透明の物しか見つからず、八戸に行った際にその話をしたら、お母さんが茶色の水飴を作って送ってくださって涙が出た。

その半分はカップの友人へプレゼントしたが「水飴はこれだ」と喜んでくれた。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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