2004-11-18

視点を変えて   NO 979


 昨日は快晴だったが、今日の大阪は朝から雨。肌寒く感じる気温の中で司会を担当してきた。

 もうすぐ誕生日で米寿祝いを迎える前のご逝去、一歳ぐらいの曾孫さんがお母さんに抱かれてスヤスヤ。その表情が悲しみの場の救いとなっていたように感じた。

 誕生の日、痛い思いをされるお母さんを除き、心配しながらも、周りの誰もが明るく笑顔で心待ちにしている瞬間。大きな泣き声でこの世に生を享けたことは、拍手に値する人間社会の感動の時。

 一方で、この世を去り、終焉の儀式で送られる時、周りの全てが心を痛めて涙で見送る。

 誕生から死の瞬間までに与えられた人生は、人様々に紆余曲折の模様が織り成されるが、終焉の儀式にあっては誰もが拍手で送り出される人生でありたいと常々思うこの頃である。

 「素晴らしい人生だったね」「苦労したけど、子供を立派に育てたね」「家族の看病する姿に感動した。素晴らしい家族の絆だね」「あなたとの出会いに感謝するよ」「伴侶に先立たれてからの人生、本当にご苦労様」

 葬儀って、皆そんな思いを抱きながらも無言で参列されてしまう世界。それがもったいなくて仕方がないと思うのが私の考え。

 「何の功績を残せなかったけど、伴侶と子供への愛情は誰にも負けないよ。いい伴侶と巡りあった。子供達が他人様に迷惑を掛けないような教育が出来た」

 そんな極めて当たり前のようなこと、そこにも拍手に値する大きなものが存在する。我々葬儀に携わる者は、そんな「当たり前」のことを見つめ直す必要があるのでは?というのが私の思い。

 葬儀とは、死に接して自身の生を知ること。そこで「生かされている」ことに気付かれば何よりだが、悲しいだけではない筈。その人の子供や孫だけではなく、何気ない仕種や言葉で人を幸せにしてきたことだっていっぱいあるのでは。

 ちょっと葬儀のありかたを見つめ直して考えると、そこにはグローバルな世界が見えてくる。「昔からこうだった」との伝統やしきたりは大切だが、「こうあるべきでは」という納得されることがあれば実行に移されるべきとも言えるだろう。

 今日、弊社のスタッフ数人が、あるお寺様が開催される文化祭設営のお手伝いに行った。檀家さん達のご趣味の展示会や講演会もあり、毎年の恒例行事となっている。

 お寺と檀家のコミュニケーション不足が問題視される昨今、こんな活動をされているお寺様もおられる。このお寺様とご葬儀で何十回とお会いしたが、お通夜のお説教で必ず故人との思い出話をされ、ご趣味についての思い出話や遺作となった作品のことに触れられることもある。

 葬儀で導師の「お経や引導」は当たり前。葬儀が終わってから遺族と共に勤められるご法要。そんな時、思い出話は癒しと慰めの最高の薬でもあるのです。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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