2004-02-08
天候よ、よくなれ NO 694
葬儀の仕事を生業にしながら、これまでに多くの式典プロデュースを担当してきた。
褒章、勲章の受賞記念祝賀会から議員の大規模なパーティーまで、プロデューサーと司会という二役をこなしたが、いつもシナリオの最終チェックは「お開き」から「受付」に戻るという手法で確認している。
これまでに何度も書いたが、すべてはお帰りになるお客様の後ろ姿に凝縮されるもの。進行の途中で<まずかったかな?>なんて思うのは完全な失敗。反省を飛び越えて後悔に至る。
悲惨な事故被害者の葬儀を担当すると、いつも遺族の悲しみを目にすると共に、後悔しているであろう加害者の存在が浮かんでしまう。
そんな体験が「逆走」的に物事を見る「逆想」に至ったように思っている。
今、関西の大学のワンダーフォーゲル部が雪山で遭難しているニュースが報じられているが、明日からの好天を祈り全員が無事に救出されることを願って止まないところ。
この加害者は雪、風、寒さという「自然」であるが、食料や燃料の予備まで考慮しても、その先を深く考えなければ恐ろしいと思うし、人間が自然に勝てないという謙虚さを忘れると反省では済まなくなってしまう。
ニュースで流れた監督さんのインタビューを拝聴し、そんな思いを抱いてしまった。
冬山に挑戦するのは命を賭けること。その出発までに家族、友人のことから始まり、遭難という最悪の想定を予測し、救助隊側からの立場、如いては自身の葬儀の光景も思い浮かべて欲しいもの。
こんなことを書けば「縁起でもない」とお叱りを受けるだろうが、命とは自分だけのものではないということを言いたいのである。
深い雪の中でビバークし、体力が著しく低下すると妄想が生まれると分析されている。そこには食べたかったもの、あたたかい温泉などが浮かぶそうで、家族、友人、恋人が浮かぶと命の火が消える危険性があると聞いた。
そんな時、是非思い出して欲しいことがある。それは、自身の葬儀の光景で、我々葬儀屋のことでもいいだろう。憎い人物を思い出し<あいつより先に死んで堪るか、葬儀屋を喜ばしてなるものか>と考えて欲しい。
きっと、それだけで生還する確立が高くなると断言する。
救助本部との限られた無線連絡だが、そんな交信をすることは考えられないだろうが、『頑張れ、助けに行く』の励ましにも限界がある筈。
明日、全員が救助され「貴重な体験となりました」と、過去形で言えるシナリオになることを心から祈り、「死ぬな」「生きろ」とエールを送る。