2004-03-04
猛、決行 NO 720
今日の新聞を見ると、一昨日の坂口大臣の「モウ・ケッコウ」発言が掲載され、不謹慎だと糾弾の意見が強く、謝罪に発展とあった。
この発言をされた夕方のニュースを私も見たが、その瞬間に<あっ、やっちゃった>と思ってしまった。
その夜、友人の割烹に行ったが、彼もニュースを見たそうで同じ思いを抱いており、「発言者自身が笑っていてどうするんだ!」と怒りを顕わにしていた。
この事件は「お粗末」の一語に尽きる低次元なもの。ご自身で考えられたものか、秘書など周囲の方が言われたことかは知らないが、発言者がインテリジェンスの欠落を曝け出す典型的なケースで、ブラックユーモアのレベルでないことだけは確か。
目前に多くの記者達がいる。マイクやカメラの存在がある。そこでおかしな発言をすればどうなるかぐらいは常識の世界。こんなところで「吉本」風の「受け」を狙ってどうするの? 国民の怒りが生まれるのは当たり前だ。
ここで勉強したいことがある。これがユーモアをうまく活用する欧米諸国の議員だったらどう表現するだろう。私は、ふとそんなことを考えながら、割烹のオヤジに次のシナリオを提案した。
「モウ・ケッコウと洒落を飛ばしていた議員や記者諸君がおられたが、私は『何を言われるか! これは、国民、国家の大問題ですぞ』と叱りつけました。大臣という責務で農水省とも協議のうえ、真剣に対処する所存です」
「俺も、そう思う。それなら大臣だ」と言うのがオヤジの感想。それなら洒落も活きただろうが、哀れな鶏の生死が絡む大問題、ここで「命」をテーマに語って欲しいと思われた人も多かった筈だ。
真の被害者である鶏に申し訳なかったが、大臣の失言を「肴」に盛り上がってしまう。しかし、感染被害が心配な地域関係者は大変な辛苦だろうと同情申し上げる。
人は、演説などで自慢話を持ち出すことが多いが、傑作という話題ほど他人作のように演出するのがテクニック。そうすれば本人の評価が確実にアップするだろう。
私が日常に創作している故人追憶のナレーションだが、プロとして自己満足に終わってしまう美辞麗句を避け、ご遺族や友人など周囲の方々の思い出話を中心にするのはそのため。
坂口大臣の側近秘書や官僚も猛省しなければいけない教訓。「モウ・ケッコウ」は「独り言」の範疇で納めるべきだった。
さて、ついでに我が大阪の太田知事さんにもひと言。くるくる意見が流されるのは許されても、感情が表面化するようでは情けない。
間違っていても、<しまった>と思っていても、それが正しく見えてくるような姿勢が重要で、感情を抑え、中曽根元総理の表情と弁舌から学ぶべきだとアドバイスをしたいが、
もうすぐ始まる大阪場所、また土俵に上がりたいとのパフォーマンスをやっている場合でないことだけはご理解を。それこそ「もう、結構」だ。