2002-09-22

小説「幕末事件」  中編   NO 203

やがて、左官が戻ったことを耳にした大家もやって来た。

長屋の衆が大掃除をした部屋、その上座に左官が座り、豪商らしき男が恐れ多い仕種で崇めているが、左官が座っている下には、誰も見たことのないような錦の立派な座布団があり、これは、豪商の連れてきた丁稚風の若者が携えてきたものだった。

 左官は、前に変わらず無口。自分の家に入ってから夕方までひとことも言葉を発していない。一人で喋っていたのは豪商らしき人物だけ。

「木戸口で番頭が見つけてくれましてな。早速拙宅にご案内申し上げ、私の持病を治療していただくことになり、これ、このように治癒したのでございます」

 長屋の衆は、完全に固まってしまっている。話をするのは男と大家だけ。固唾を呑んで
事の成り行きを見守っている。

「按摩の修行を積んできたのですか?」
 大家が素朴な疑問を言葉にした。男の目が一瞬にして厳しくなる。

「なんと失礼なことを。按摩や医師の修行ではございません。そんなことが5ヶ月で出来る筈もないこと」

「では、何の修行を?」
 大家の質問は、周りに座っている長屋の衆の気持ちを代弁するもの。左官は、じっと目を瞑ったままひとことも喋らない。

「皆の衆、よーくお聴きなさい。先生は、誰にも出来ない修行を終えられ、そのお陰で神が宿られることになられたのです。医師や按摩ではないのです。神のお告げを伝えることが出来るのです。しかし、そこで失ったものもあったのです。声の9割を失うことになったのです」

 長屋の衆がざわめく。互いが驚きの目で左官を見つめ、男の次の言葉を待っている。

「私が噂を耳にしたことは、本当のことでした。永い間苦しんできた腰痛が嘘のように治りました。私は、そのお礼といたしまして、このお部屋を改築して神殿とし、ひとりでも多くの方々を先生にお救いいただこうと考えたのです。如何なものですかな?」

 突然の帰宅、そして突飛もない予想外の事実を前に、誰もが唖然としてしまっているが、大家には確認したいことがあった。それは、この豪商風の男が何者であるかということで、場の雰囲気を崩さないような低姿勢で訊ねてみた。

「こ れは、これは、申し遅れたようですな。手前は、日本橋を少し離れたところで蓮根を卸す商いをやっております。生まれは水戸街道に近い土浦の郷。親が名主を やっており、手前は、土浦から運ばれる蓮根を一手に仕入れ、江戸の皆さんにという訳でして。お陰で大店を構えることも出来、感謝をいたしております」

 土浦といえば江戸から約15里。誰もが知る蓮根の産地で名高いところである。身に付けている装いからも大店の主という雰囲気があり、それらは、大家を筆頭に全員が納得するに充分な説得力があった。

      明日に続きます
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