2007-05-07

連休明け  NO 1855


 日付けの変わる少し前から真向かいの銭湯へ、温めの湯船に浸かり、睡眠に影響を及ぼす手足の冷えを解消してきた。

 そんなところから、この「独り言」を速い時間で打ち込まなければならないが、服用した薬の効力で頭の中が<!?>という状況にある。

全国で、毎日悲しい通夜や葬儀が行われている。塾生の1人が交通事故の葬儀を担当し、別の1人が事件の被害者の葬送を担当することになって悩んでいた。

「どんな葬儀にするべきでしょうか?」とアドバイスを求められたが、「お通夜が始まるまで真剣に悩みなさい。そして明日の葬儀が始まるまでも苦しいほど悩みなさい」と敢えて冷たい対応で返しておいた。

 彼女は葬儀に対する崇高で先天的な「優しさ」を有している。懸命に悩むプロセスに得られる答えこそ最良のシナリオであり、それを自信を持って遂行しなさいというのが私の考えだった。

 教えられたシナリオに頼るのではダメ、そこで悩む心の裏側から滲み出る自分の思いを「かたち」として組み上げる。その発見が故人や遺族にとって「最上」の供養となり、「斎場」という空間で求められる大切なことなのである。

 悲しい葬儀。そこで我々プロの司会者の悩みの問題が導師を務められるお寺様の度量ということ。読経の伝達力、そして読経後に行われるご法話の内容がとんでもない事件に発展する危険性もあり、そんな場合の収拾に神経を遣う仕事の辛さは一般の方々に言えない問題なのである。

 悲しみにくれるご遺族に対する導師のやさしいお言葉、その光景を目にされた参列者の心も和んで救われるような空間環境、そんな世界を言葉と仕種で与えてくださる宗教者の存在は少なく、今後の宗教離れの大きな要因のひとつと断言する。

  数日前の葬儀で導師を務められた若いお寺さんが素晴らしかった。お通夜も葬儀も女性お二人で進められたのだが、読経のお声だけではなく、そのお仕種に何と も言えないやさしさを感じたもの。入場時、退出時、その両方で参列者の皆さんに手を合わせておられたお姿が美しく、失礼な表記で申し訳ないが、30代の若 さで宗教者とされてあれだけのフィーリングを自然に醸し出される宗教儀礼、そこに誰もが求める宗教者の姿が感じられたような気がした。

 連休が過ぎてしまった。国民の大移動が終わって通常通りの社会に戻るのだが、この間にも多くの事故の被害者があった。エキスポランドのジェット・コースター事故なんて想像もしなかったこと。人に、いつ災難が襲って来るか不明という恐怖感が募ってくる。

 臆病な私は絶対に乗ることはないが、娘や孫達が好きなようで心配だ。過去に中国の遊園地で発生した回転式ブランコ崩壊の事故映像をテレビで観たが、それはいかにも中国らしい事故のような気がした。

  事故との遭遇、そこには悲嘆が拡がる世界がある。家族、親戚、友人、知人など、多くの人達に衝撃を与えてやるせない心情を及ぼすが、同じ事件が何度も起き るのが人間社会の常識である。「二度と繰り返しません!」と宣言をした人達が再発で謝罪している姿も少なくないが、もう一度書くが、謝罪するエネルギーの 強さは半端じゃなく、その際に猛省してもどうにもならないことに気付くだろう。

 そんな結論が「加害者になるな」「被害者になるな」ということなのである。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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