2015-02-05

見たことありますか? NO 4095

昨日「水曜日」は「まぐまぐブログ」の送信日。テーマはヒューマンエラーで、ある葬儀式場でご遺体が入れ替わっていたミステリーみたいな出来事や、警察署にご遺族の依頼からやって来た葬儀社が別人のご遺体を搬送したニュースのことも触れたが、マンネリの中で発生するミスの恐ろしさを考えたいので書いた。

また厳しい冷え込みがやって来ている。こんなことを何度か繰り返して春を迎えるのだが、「立春の光纏いし仏かな」という句の時期を迎えたのでもうすぐやって来る春を待ちたい。

この時期に喋っていたフレーズがあった。「去りゆく冬の厳しさと、やって来る春の穏やかさが鬩ぎ合う早春は、何時の季節にも増して一日一日を愛おしい思いで過ごしますが、早春に逝かれた人の思いでは一入心深いものを覚えます」というものだが、併せて次のような言葉も使用していた。

「遠い北国はまだ深い雪に閉ざされています。そんな辛い北国のことを思い浮かべ、耐え忍ぶと言う言葉で春を待ち焦がれる心の上にしんしんと冷たい雪が降りしきっているような思いがします」

「故人とゆかり深い**寺の境内で落ち葉を焚く煙が立ち上っていました。その煙が送り火のように思われて手にした数珠を思わず握り締める今日お別れの日です」

耳にされる言葉と文字で目にする文章とは全く意味が異なることもあるが、出来るだけ耳から伝わり易い言葉を考慮するのが我々司会者の仕事で。こうして文章に表わすのはあまり好きでないと正直に吐露するところである。

葬儀には宗教が深く関係するのは当然だが、その宗教の教義を学んで言葉を選ぶことも大切だし、「命」「季節」などもキーワードとして重視する考え方も必要だろう。

葬儀という世界には非日常的ということから日頃にしないことを行うというしきたりもある。会葬礼状に句読点を使わなかったり、通常ならW敬語なんて禁句なのに、トリプルという「御尊父様」や「御母堂様」なんて弔電の世界があるのだから混乱を来してしまう。

葬儀に関する手紙は常識から外れてもよいという考え方があり、冒頭の季節言葉も不要とされているが、耳に伝える場合には心の扉を開けていただけるような季節言葉も大切で。うまく使えば抵抗感が生じない事実もある。

ある神道の葬儀で初めて耳にした言葉があった。副斎主の方が式次第について「喪主以下親族玉串を奉奠」なんてお言葉で一つ一つ声を掛けてくださるのだが、お父様の葬儀で息子さんが喪主を務められていた葬儀の時だった。祖の部分で次のように言われたのである。

「喪主、喪婦、玉串を奉奠。遺族親族同じく玉串を奉奠」

喪婦とは故人のご伴侶だったが、考えてみればおかしな表現ではなく「ないより」「ある」方がよいのでは?と思われる言葉で、終わってから先生方と有意義な論議を交わすことになった体験となった。

前号で節分の「豆まき」で函館では大豆をまくことも行われているが、落花生をまく慣習もあるあるそうで、これは各地で行われているという説もあったが、尾道のブログには「鰯」を食べると書いてあり、これもあちこちで見られるしきたりだそうで、その地の風習は様々だと感じると共に、葬儀に関する土着した習俗は、時には宗教より強いというケースもあることも体験している。

過去に北海道から九州まで全国各地で行われた葬儀を担当した歴史があるが、それらは大規模なもので、密葬義を終えた後日の本葬儀ということが多かった。故に習俗の影響を受けることは少なかったが、密葬義を担当されていた地元の葬儀社さんから伺ったその地独特の慣習はそれこそ様々で、今でもそんなことをとびっくりするものもあった。

今日の写真は函館の水引細工アート「清雅舎」のHPないにある「空飛ぶ水冠」のページから拝借して来た法具「華籠(けこ)」である。中に「散華」に使われる花びらが入っているが、法要や葬儀の中で行われると何か有り難い心情になるのだから不思議である。
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