2007-09-12

来客との会話から  NO 1972


 今日は、友引の日。夕方、名古屋と東京の女性司会者が来社、お通夜体験研修のひとときを過ごしてから大阪らしい「お好み焼き」を食べに出掛けた。

 一人は妻とも顔馴染み、そこで帰宅した頃に電話を入れて呼び寄せ、久し振りの再会ということになった。

「葬儀社の人達は勉強しません。派遣司会者にすべてを任せる姿勢が理解出来ません」というのが2人に共通する意見。経営者であり司会者でもある私が派遣司会者の心情をよく理解してくれていると喜び、悩みの相談を担当しながら素晴らしい歌声も聴かせて貰った。

 東京からの人物は舞台の主役やミュージカルの世界も体験、その歌唱力は「さすが!」という驚きの世界、妻も「やはりプロは違う」と感心していた。

 さて、昨日、東京都内のホテルで偉大な作詞家「阿久悠」さんのお別れ会が行われていた。多くの音楽関係者を中心にしてプロデュースされた会であったようだが、「それはないだろう?」と思うような光景を目にして衝撃を受けた。

 こんなケースでは発起人が組織されることが多いが、音楽だけではなく、周囲に演出や音響のプロの存在があるにも拘らず、最も大切に考えたい部分が欠落していたので寂しい思いを抱いた。

 会場となったホテル側、また、設営を担当した出入りのフラワー会社の責任もあるが、出席者の「献花」が「裸のままのカーネーション一輪」とはお粗末過ぎるレベル。あの世から阿久悠さんが「ふざけるなよ!」とお怒りになっていないだろうかと心配だ。

  献花を真剣に考えて捧げるのが基本的マナー、仏式の葬儀で最低の「香」を手向けていることにつながるが、「少なくともラッピングぐらいはされるべき」と、 ホテル側の責任者が教えるべきだろうし、そんな背景には発起人や周囲の人達の「送るハート」の本義がボヤケテいたということになるだろう。

  また、著名人の多かった出席者達の中に、果たして「心のオシャレ」で接しられた方がお一人でもおられたかと興味を覚えている。大きな花束を持ち込んでくる のはマナー違反だが、かわいくてやさしいイメージの自分だけの献花をご用意、「これ、私のハート」と、用意されてていたカーネーションと共に供えられたら 間違いなく喜ばれただろうと断言する。

 ホテル葬や「お別れの会」「偲ぶ会」の流行を随分昔に予測し、何度もマスメディアに採り上げられた歴史もあるが、昔からずっと言い続けてきたことは「会」や「集い」ではなく、何処かで「式」の部分が不可欠ということだった。

 日本の歴史は「神仏と共食」という本義がある。神事の「直会」や仏事の「御斎」は第一部の式があっての第二部である。そこで第一部を形骸化してしまったら、それこそ本末転倒ということになるだろう。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net