2003-03-14

若葉マーク    NO 372

弊社の企画室長が、全国葬祭業組合連合会の主催するセミナーで東京に出張しているが、会場で日本トータライフ協会の若手メンバー達と再会したとの報告があった。

 そんな中、全国に点在する協会のメンバー数人が来阪、葬祭哲学の研鑽や司会の技術研修について熱く論議を交わしていた。

 一方で、今日は嬉しいお客様の来訪があった。過日に大阪市立斎場「やすらぎ天空館」で葬儀を担当した方のご遺族で、遠方からわざわざ御礼にお越しくださったのである。

 大切な方を喪われたご遺族の悲しみ、それは体験された人にしか理解出来ないほど強烈なもの。10年経っても癒えることがないケースも多く、時が流れて悲しみの本人が死を迎える前、<これで、あの人に会える>との安堵感が生まれるとも分析されている。

  ご主人を亡くされた50過ぎの奥様が、夫に代わって子供達を立派に育て上げなければと頑張って来られ、やっとの思いで2人の子供さんを嫁がせることが出来 た時、一挙に悲しさと寂しさに襲われ、自分が夫を喪ったことに改めて気付き、そこから本当の悲しさが始まったという事例もあった。

 今、 悲嘆を癒すことを目的とした著書が多く出版されている。「夫を亡くした人のために」「妻を亡くした人のために」というものもあるが、それらは同じ悲しみを 体験した人達の体験談が中心になっており、ある心理学者が、「人によっては、時には暗く落ち込んでしまう危険性も秘めている」という分析をされ、悲嘆心理 のケアの難しさを改めて知ったこともある。

 核家族の時代になり、それぞれが別の地で生活をしていると、親の死に対する悲しみの度合いに微妙な食い違いが表れることもあり、葬儀の形式についての「思い」の異なりから争いに発展した経験もしたが、これらにも「儒教」精神の希薄化を感じてしまう。

 さて、先月の終わりから弊社のミス・ホスピタリティにナレーターの研修を行っているが、今日、たまたま来社された葬儀のプロ達を前に、彼女が嫌がるのを無視して、業務命令というかたちで「お披露目」をさせてみた。

 左手に原稿を持ち音楽が流れる。スタートのタイミングを計る彼女の右手のマイクが震えている。やがてスタートして4分40秒のナレーションが終わると、プロ達が拍手を贈ってくれたが、それらははっきり言って儀礼的なもの。

 しかし、彼らは、やはりプロ。私が思っていることと同じ感想を伝えてくれた。

 『一生懸命にやっている。その心情が伝わってくる。きっとその気持ちが遺族に伝わる』

 それは、若葉マークの時代だけに感じ許されるものなのかも知れないが、この新鮮で真剣な姿勢こそが重要で、大切にして欲しいと思いながら育てている段階。

 多くの司会者達を研修してきたが、プロでないのにプロに見せようとするのが最も粗悪な司会者。司会で大切な心は『未熟者です』『まだまだ勉強を』という謙虚な構え。それを磨いて行った先に「品」を感じる司会者となる入り口があるのだ。

  今日、高知県の「おかざき葬儀社」の岡崎 道さんのナレーションも拝聴した。彼女だけの持ち味である「気品」は、その人柄のやさしさあふれる旋律的メロ ディラインに乗せられ「貴品」を感じるレベルにあったが、弊社の大切な人<財>育成にあって、大きなヒントを頂戴したひとときであり、ミス・ホスピタリ ティの目が輝いていたのが嬉しかった。
 
 『すくすくと 育てきたりし庭の花 思いあるなら春を迎えよ』 もうすぐ、本番だ。
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