2012-05-11

あの日のこと  NO 2926


 いつもより早めに銭湯へ行った。顔馴染みの人物と会話。大手術を受けられたそうで、50針ぐらいもある傷跡を見せられたが、母親を送るまでは生きなければならないと仰り、「その時は頼む」と手を合わされた。

お気に入りの温めの湯、今日はアロエのエキスが入っているとのこと。グリーンとブルーを併せたような色合いに、思い出したのは過去ログで触れたことのある出来事だった。

 50年前、当時はまだアメリカ統治だった沖縄へ行った際のこと。神戸中突堤から出港した関西汽船の貨客船2600トンぐらいの「浮島丸」で、太平洋や東シナ海で目にした海の色は濃いインク色。今でも強烈に記憶している。

 現在の関西空港の辺りから揺れ出し、那覇港に到着するまで60数時間、全く食事が摂れずに横になっているだけだった。

 途中で奄美大島の名瀬港や徳之島、与論島を経由したが、嵐のような強風で立つことも不可能な揺れ方。そんな嵐の中で一隻の船が横波を受けて転覆。多くの死者が出た「みどり丸」事故が起きていた。

 我々が乗船している「浮島丸」が那覇の泊港に入港する時、岸壁には多くの人々が集まっておられ、それが次々に収容されるご遺体を待っておられる関係者の皆さんだったことを上陸してから初めて知った。

 数年前、数奇な出会いを体験した。関東のホテルでお願いしたマッサージ師の方が、話の中で「みどり丸」事故のことを知っておられ、詳しく聞いてみるとびっくりする事実を知ることになった。

 その方の従兄弟の方が事故の犠牲者で、那覇港で待っている時に「浮島丸」が入港して来たと言われたからだ。

「その浮島丸に、乗船していたのですよ」と返したら驚かれ、互いの不思議な出会いに驚いたが、世の中にはこんな出会いもあるのだという体験でもあった。

那覇から久米島に向かっていた「みどり丸」は一瞬にして転覆してしまったそうで、乗組員が漂流しているところを砂利運搬船に救助されたが、無線設備がなく、那覇港に入って事故が初めて伝えられたのは発生から5時間後で、112名もの犠牲者が出る大惨事でもあった。

 一方の「浮島丸」だが、完成したのは1960年で、神戸と沖縄を結ぶ航路に就航。後に転売されて小笠原航路の「父島丸」として1973年から1979年まで活用され、1984年に台湾で解体されたそうである。

 今日は「金曜日」で「幸せ列車」のメールマガジン発信日。第15号は「孫の変身」と題し、お爺ちゃんの葬儀当日の孫の変身振りを書いている。
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