2003-01-07

歪みの震度    NO 307

お寺や地域会館での葬儀で、この十数年で大きく変化していることがある。

 司会者の開式の辞で葬儀式が始まる。導師を中心に宗教者のご読経の声がスピーカーから流れる。

 10年ぐらい前だったら、「お経の声が小さいぞ」と、一般会葬者の方からのご指摘があったが、最近は、全くないだけではなく、「もっとボリュームを落としてくれ」という声が多くなってきたのである。

 当時の宗教者は、「引導の時は、全会葬者に聞こえるように」と要望されることも多く、音響担当者が神経を遣っていたのが懐かしい。

 特にお寺での葬儀では、ご住職の奥様が会葬者側でチェックをされ、アップダウンの合図をいただいたこともあった。

 それが今ではどうだろう。「近所がうるさいの」と、迷惑を掛けないように最小限の音声に絞っている時代。人の終焉を送る葬儀の、こんなところにも変化が生じてきているのである。

 今や世の中は、如何に葬儀と言えども「お互い様感情」が稀薄し、近所迷惑の上に成り立つ発想が求められる時代。

式場となるご自宅やお寺のご近所挨拶に伺うと、これらの抵抗感が顕著となってきている。

 地域会館やお寺の近所の方々に生じる苦情や鬱憤の解消。これらは、挨拶回りを担当する女性スタッフの重要な仕事になってきている。

 一方で、自宅で行われるケースが少なくなっているが、お互い様感情の稀薄は意外なところにも影響がある。

それは、特に新興住宅地で発生している問題で、宗教者の控え室としてご近所の何処かを拝借するのに、プライベート部分で抵抗があるからとお断りをされることが多くなっており、親戚さん達でごったがえす部屋の片隅で着替えという悲喜劇が起きている。

 古い昔の話だが、自宅葬が大半であった時代、宗教が異なっていても「当家がお寺様の控え室を提供します」というお申し出が多くあり、宗教者の方も、宗派の異なりを超越され、控え室に仏壇がある場合など礼節を持って積極的にご対応されていたものだ。

 今、大都市圏の葬儀は簡略化が進みつつあり、葬儀の意義さえ危ぶまれるほど変化してきている。

 我々葬祭業者や宗教者に対する社会の抵抗感が想像以上に強い。遺族の悲しみを理解する努力もしないで葬送ビジネスを進めてきた葬祭業界と宗教者。今、確実に「歪み」としての震度を感じているこの頃。

 今、私は、日本トータライフ協会の若いメンバー達の活躍に心から期待を寄せている。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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