2006-02-08

長編ですが?  NO 1419


 昨夜から吹き荒れている強い風が治まらない。何度も書いたが我々葬儀社にとって「風」は最悪で恐怖の代物、何度も泣かされてきた歴史があり、これからの生涯にも変わることはないだろう。

 出張で新幹線を利用することが多いが、<こんな強風で大丈夫?>と恐怖感を抱くのが常。それらは北海道行きで已む無く搭乗する飛行機でも同じで、それこそ「臆病風?」ということになるだろう。

 さて、郵便物の中に運転免許証の更新についての通知があった。これまで5年間のゴールド免許証だったが、残念なことに今回の更新でゴールドではなくなってしまう。

 平成15年の夏に「故障表示義務違反」があり、5年間有効の青色免許証となるからだ。

 道路上で故障が発生、三角の発光板を設置しなかったミスだが、高速道路上で予想もしなかったハプニングだった。

 ゴールド取得にはシートベルト違反が1回あってもダメだそう。過去10年間は上述の事犯だけだが、更新が3年でなく5年ということで満足し、安全運転に心掛け、5年後のゴールド免許を目標としよう。

 風と車の話題が出たところで過去に遭遇した「怖かった」体験談を。

 接近していた台風で高速道路が通行止めになり、一般道を走行することになった経験が3回ある。すべて九州へ出張するために向かっていたのだが、中国道の広島県「千代田インター」「三次インター」それに山口県の「小郡インター」だった。

 不思議に出張と台風が遭遇する。30メートル近い強風では時速40キロでも恐ろしい。前を走行する大型トラックが横に流される光景を何度も目にしたが、ハンドルをしっかりと握っておかなければとんでもないことになる状況だ。

 特に怖いのがトンネルを出た瞬間、フワーと浮き上がるような感じを体験してゾッとしたこともあり、暴風雨の中を九州に向かって国道2号線を走行した思い出が強烈に残っている。

  鹿児島、志布志、宮崎、延岡、日向、別府、苅田、新門司、小倉など、阪神感を結ぶフェリーも何十回と利用したが、高知沖の太平洋を航行するフェリーで何度 か「降ろしてくれ!」と叫びたい体験もしている。船室で立てないほど揺れるのだから恐ろしい。<陸を走行するより楽だから>と利用したのだが、そんな体験 後は天気予報を確認してから選択するようになった。

 ここで、ちょっと雑学を。フェリーの航行にあって「第二基準航路」というのがある。 これは、台風などの影響を避けて航路を変更すること。例えば、九州から太平洋側を避けて瀬戸内海を航行するケースなどだが、昭和53年の9月、宮崎細島港 から神戸に向かう「さいとばる」号が、そんなコース変更から来島海峡で韓国の船と衝突し、沈没したという事故もあった。

 そのフェリー「さいとばる」に乗船したことのある私、ニュースを目にした時のことを今でも覚えているが、災難との遭遇は御免蒙りたいものである。

 さて、船舶の話題が登場したところで、過去にも書いたこれまで乗船した中で最も揺れた船のことを紹介したい。なぜなら「命」が大きく係わっているからで、私の人生の1ページとして忘れられない「鮮明」な記憶の「船名」であるからだ。

10 年ほど前に「エイジアン・ブルー 浮島丸サコン」という映画が話題になった。1945年8月24日、青森から釜山に向かう途中に寄港した舞鶴湾で爆発し、 600名近い人々が犠牲になった戦後間もない「浮島丸」の悲劇を、募金活動から始まって映画制作されたものだが、未だに多くの謎が残されたままの悲惨な事 故だった。(詳しくはネットで浮島丸事件をどうぞ)

 この船は元々大阪商船が阪神と沖縄間の貨客船として造船したもの。太平洋戦争の中では特設巡洋艦に改装された歴史もあるが、上述のように終戦後すぐに惨事を迎えた。

 そんな「船名」である「浮島丸」が昭和35年3月、関西汽船の貨客船として神戸と沖縄を結ぶ定期船として登場し、昭和38年8月に乗船していた。

 神戸の中突堤を出航した2611トンの船、当時の沖縄はアメリカ管轄でパスポートが必要で、1ドル360円という時代。姉妹校を訪問する学校代表として選ばれた縁からだった。

  出航してから現在の関西空港付近まで来ると揺れ出した。風が強いとは思っていたが、どんどん強くなってきているみたい。徳島の先端を回って太平洋に出たら 立って歩くことが出来ないほどになった。そこから最初の寄港地である奄美大島の名瀬港まで、船酔いで一切何も食べることが出来なかった。

  東シナ海は台風並みの強風が吹いていた。名瀬港の入り口にある「沖の立ち神」に<出航しないように!>と祈っていたが、数時間後に出航した。途中で徳之 島、沖永良部島、与論島などに寄港しながら沖縄に向かう。風は完全に台風クラス、船が大きな波間に入ると360度が波の水平線みたいな状況になる。揺れる 度に船室でゴロゴロ転ばされる。

 そんな嵐の中で66時間の航海、那覇「泊(とまり)港」に入港して行くと様子がおかしい。びっくりするほどの人達が出迎えている。その中にパトカーや救急車の姿がいっぱい見える。

 入港したその日、昭和38年8月17日、那覇と久米島を結ぶ定期船「みどり丸」が横風を受けて転覆、112名の犠牲者が出ていたというところだった。

 よくぞ無事に着いたものだと実感したが、その日からしばらく、身体が揺れておかしな状態になってしまった。

 さて、その浮島丸だが、その後昭和48年に小笠原海運に転属され「父島丸」と改名、5年間ほど東京と小笠原間を航行していたそうだ。

 最後に数奇な出会いがあったので追記を。4年前の春、茨城県つくばのホテル・オークラに宿泊した際、マッサージの方が沖縄ご出身ということから「浮島丸」と「みどり丸」のことが話題になった。

 何と、その方のご親戚の方が犠牲になって那覇港に来られていたそうで、私が乗船して入港する浮島丸を目にされていたという不思議な「えにし」に手を合わせた出来事であった。

  舞鶴湾での浮島丸事件の他に、終戦後には戦争後遺症みたいな事故が多かったそうで、大阪から別府に向かう関西汽船「室戸丸」が神戸沖で触雷して爆発沈没す る事件もあり、瀬戸内海には機雷が山ほど放置されていたところから、大半の船舶が太平洋側から迂回する不便を強いられていた時代が数年続き、多くの人達が 犠牲になった歴史があることも忘れてはならないだろう。

 昨号で紹介した「サンサンてるよ」さんのHPに、ゼロ戦乗員として九死に一生を 得た人物の体験談があったが、特攻隊のような行為は、終戦後の機雷除去に関する作業でも求められた事実があり、戦争は葬儀と同じで「終わってからも大変」 と学んで欲しいと願っている。(サンサンてるよさんのHPは、上記<HOME>からどうぞ)
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