2006-02-05

叱られる提起?  NO 1416


 八丈島に3センチ、新潟では4メートル以上の積雪と報じられていたが、昨日からの大阪の冷え込みも厳しいもの。深夜に銭湯に行ったが、冷え切った身体には熱過ぎ、中々湯船に入ることが出来なかった。

 さて、名古屋で「どうして!」というような深夜の交通事故のニュース、片側三車線の道路で2台の車のトラブルから両者が争いを始め、センターライン側まで仲裁に行った両者の奥さん2人が戻ろうとしたところではねられ、死傷したという悲しい出来事。

 争いがなければ事故も起きていなかった筈だし、前方不注意で業務上過失致死罪に問われる運転者の人生が大きく変わることはなかっただろう。

被害者になるな、加害者になるなが私の口癖だが、こんな事故のニュースを知るとやりきれなくなると同時に、災難とは何時、何処で、誰がという恐ろしさを改めて感じ、ハンドルを手にする重い責任と運命の悪戯に遭遇しないよう願ってしまう。

 自然死と事故死の葬儀は全く異なる世界がある。前者は対象の大半が「病気」であり年齢という納得があるが、後者は対象が「人間」への憤りとして生じているから。

 自然な死を迎えられた方の葬儀では人生を称える司会も可能だが、事故死の場合は称えることによって悲しみを強くしてしまうことになる。

  先月、塾生から「悲しみの大変強い葬儀を司会します。どうしたら?」とアドバイスを求められたことがあったが、伝えたのは「共に悲しみなさい」ということ で、開式前に自分も悲しい。担当する人間として忘れられない1ページになるというようなコメントを入れなさいということだった。

「僭越だ」「とんでもない」というご意見もあるだろうが、それは式場に渦巻く「憤り」を少しでも和らげることが出来る「葬祭心理学」応用のテクニックのひとつで、プロの葬儀司会者と呼ばれる人達ならご理解いただけるだろう。

 本音を言えば、この部分は宗教者がされるべきことであろう。導師入場があって開式の辞から読経を始めるのではなく、「読経を始める前にお話しがございます」と上記のことを説いていただければベターである。

  お一人の葬儀を担当する。そこに急に遺族と呼ばれるようになった家族の存在がある。そこで生まれている悲しみは人それぞれに差異があるのも事実、不適切な 言葉だが分かり易く言えば「悲しみの度合い」となるだろうか、誰が最大の悲しみを抱いておられるのかの判断一つで葬儀そのものも変化する筈。この部分に 我々と宗教者のコミュニケーションが欠けているのが現状だろう。

 最も悲しみにくれている人に宗教者が救いとなる声を掛ける。それは、周囲からすれば不幸な中で「不幸でないひととき」のプレゼントになる。

  誰かが定めた宗教儀礼作法に則った葬儀が、ずっとこれまで行われてきている。故人と宗教者間では完成しているかもしれないが、入場されてからのひととき と、儀式を終えられて退出される際のひとときの活用、そこに導師が宗教者である証しが見え、それが誇りとなっていただければ葬儀も随分変わるだろう。

 今夜、塾生のお婆様のお通夜が広島で行われている。弔問も明日の会葬にも行けずに心苦しい思いでいっぱいだが、西に向かって手を合わせた。南無大師遍照金剛・・・合掌
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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