2006-05-22

道理必然  NO 1513


 葬儀という文字に当て字として「創儀」と表記しているケースも増えているが、それらは100人100様の葬送形式という社会ニーズを背景に打ち出された造語であり、この「新語」に対して批判的な宗教者が存在していることも事実である。

 交流のある葬儀社がこの文字を表記しているが、社長の考えを聞くと宗教を否定する思想は一切なく、宗教者と共に「どうあるべきか」と考える時代の到来だと熱く語っていたのが印象に残っている。

 ある地方での出来事だが、新興住宅地の近くに葬儀社が営業所を開設したところ近隣から発生したのがこの問題、「**葬儀社」の「葬儀」の文字を何とかして欲しいという要望だった。

 忌み嫌われてきた死や葬儀、誰もが死を迎える「道理」があるのに「無理」な権利の主張が生じる。そんな社会の現実に殺伐とした事件が続発するのも必然と言えるかもしれない。

揉め事は避けるべきと考えて表記したのが**創儀社だが、社長が相談されたお寺さんとの会話で「まだまだ真の人間社会はほど遠い」と嘆いていた。

 一方で、随分前、小学校の近くのお寺で月に数回行われる葬儀について一騒動があった。PTAから「教育上悪い」という意見が出てきたのである。住職が「死は自然のこと。教育に良い」と反論されたのは言うまでもないが、校長の頼りない教育姿勢が問われる問題でもあった。

「死は悲しい」「命は大切」なんて教育は何より重要なこと。知的・美的・倫理的・宗教的と四つある情操感覚があれば「いじめ」という問題も起きないだろうし、不登校という現象がこれほど多くなることはなかっただろう。 

 さて、暑さを感じる時期を迎えようとしているが、冬モードの下着姿で銭湯に行く姿が段々と恥ずかしくなってきた。

事情を知らない人達の視線が集まる覚悟が必要で、言い訳や説明をする対応も「しんどい」こと。だからどうしてもお客さんが少ない時間帯に行くことになる。

 私が日課としてお世話になっている銭湯は「南生野温泉」だが、ホームページがあるのでご訪問を。上記<HOME>で接続申し上げます。

 そうそう、数日前、ある方から岩盤浴についてメールを頂戴し、私が入院していた病院の近くにもあると教えていただいたのだが、昨日に来社した取引先のスタッフからの情報で、そこがその会社の社長の関連会社が経営していることを偶然知ることになって驚いている。

 世の中は広いようで本当に狭いもの。<何でこんなに不思議なことが!>ということがいっぱいある。それらはすべて「ご仏縁」だろうし「必然」と考えることも大切だろう。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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