2007-06-25

あの日、あの曲  NO 1899


 6月24日は、昭和の歴史に残る偉大な歌手「美空ひばり」さんのご命日であった。
こんな仕事に従事しているからかもしれないが「悲しい酒」が好きで、ギターの弾き語りで歌いながら彼女の在りし日の姿を思い出したことも何度かある。

 彼女の歌唱力は音楽的な観点からも別格的レベル、「天童よしみ」さんや「キム・ヨンジャ」さんが近いレベルと言われたこともあるが、私の個人的な意見で格段の差があるように思っている。

 過去ログで紹介したが「美空ひばり」さんの「耳」は特別な音を感じる天才的な世界があり、それらはレコーディングの世界での語り草として有名でもある。

 スタッフ達が担当するご葬儀、ご家族から伺ってくる故人がお好きだった音楽、そこに「美空ひばり」さんの曲がずば抜けて多いのも事実。「歌は世に連れ」との言葉があるように、それぞれの方の人生に思い出の曲が存在しているということであろう。

  そんな「ひばり」さんの歌で面白いエピソードがあるので紹介をしよう。誰もが知る巨人軍の名誉監督「長嶋茂雄」さんがデビューされ、そこで当時の国鉄の偉 大な投手「金田正一」さんの4三振されたことは有名だが、その金田投手がマウンドに向かって歩いていく際に口ずさんでおられた曲が「りんご追分」で、あの 何とも言えないリズム感が金田投手の後押しをしていた秘話でもある。

 1989年(平成元年)と言えば2月24日に昭和天皇の「大喪の礼」が行われ、その4ヶ月後の6月24日に彼女がご逝去、当日の毎日新聞朝刊の一面のトップ記事に「美空ひばりさん死去」「52歳 戦後芸能界の女王」との写真入の見出し。

 因みに平成元年に発表された名曲が「川の流れのように」で、上述の「悲しい酒」は昭和41年、「りんご追分」は昭和27年の曲だった。

その横の記事に「参院選 各党の目算は」「自民『最悪』更新も」との見出し。ふと見ると宇野自民党総裁土井社会委員長、石田公明委員長、不破共産委員長、永末民社委員長の写真が掲載されていた。

 もうひとつ興味深い記事が目に留まった。「江沢民氏、就任へ」「中国総書記 きょうにも発表」とあったから。

 さて、塾生が会社の慰安旅行で「九重の吊り橋」に行ってきたそうだ。場所は阿蘇と由布院を結ぶ「やまなみハイウェー」の飯田高原のあたりから幹線道路へ入る筈だが、このハイウェーが完成したの昭和39年、私が17歳の時だった。

 キャンペーンのパンフレットを見て、免許を取得したら必ず走ろうと考えていた道。やがて18歳で普通免許を取得、19歳の時に貯金をはたいて4泊5日の一人旅を決行した。

 大阪駅から午前8時頃に発車のディーゼル特急「かもめ」の一等車を奮発。10時間も要して熊本に到着、次の日に当時の憧れだったホンダのレンタカーS600のオープンカーで別府方面へ向かった。

 阿蘇をぐるっと回って内牧温泉に宿泊、次の日は九重高原、飯田高原などを通って城島高原のホテルで宿泊、重たくて邪魔なのに持っていったギターを弾きながら目にした山の風景を今でもはっきりと記憶している。

 最終日は別府の地獄巡りと高崎山へ。そして別府でレンタカーを返却して夕方の関西汽船で大阪の天保山へ帰ってきた。

 3000トンクラスの「くれない丸」や「むらさき丸」という観光船ではなく、ひどくくたびれたイメージの2000トンクラス「るり丸」に乗船し、松山港、高松港、神戸港経由で約20時間も要する船旅だった。

  3000トンクラスには、その後「こはく丸」「すみれ丸」「こばると丸」「あいぼりー丸」が新造されて就航したが、まだ別府行路にフェリーが登場していな かった昭和40年代前半は、そんな船旅の人気が高く、その後、私はそのすべてに乗船したこともあり、今では懐かしい思い出となっている。
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