2005-05-20
葬道 NO 1162
この世に生を享け「生きた証し」を残せることは幸せなこと。子供、孫という「命の伝達」ができたことにも何より感謝。<贅沢言えば曾孫まで>
ふと振り返ってみると「著書」があり「作曲」したものが収められたCDの存在もある。そして、このコラム「独り言」が余命の続く限り号を重ねるだろう。
これまでの人生の財産で誇れるもの、それはこれまでに出会った多くの方々。全国に素晴らしい友人達が存在しているし、これからもどんどん増えることになるだろう。だから座右の銘は「ご仏縁に感謝」と手を合わす。
性格は長嶋名誉監督みたいにプラス指向型。高血圧症だと診断されるまで短気だったが、降圧剤服用から気長に変わったみたいで長生きしそう
大嫌いなのが争い。宮沢賢治の「つまらないからやめましょう」という「雨ニモマケズ」タイプ。今年になってから2回も大きな医療ミスの被害者になったが、考え方一つで怒りを治めることも可能では。
東京のホテルの部屋で信じられない被害者になったこと。また、娘の披露宴で発生した一流料亭のとんでもないミスなどもあったが、怒りを表さなかったことで懐かしくて良い思い出となっている。
しかし誤解されたくないので申し上げるが、決して美しい心の持ち主や聖人ではない。ただ耐えることを与えられた試練として受け止めてきただけ。分かり易く言えば発想の転換で感情をコントロール出来ただけのこと。
このコントロールで重要なことは「自分」「相手」の二者と、その中間から客観的に考えてみること。そうすれば怒りの言葉を出さなくても解決可能。これらはプロデューサーとしてシナリオ作りに携わってきて学んだこと。
ここで終わったら単なる「変なオジサン」となってしまうので加筆するが、過去に体験した航空機事故、交通事故などの葬儀で実感したことに大きく影響を受けている。
加害者側、被害者側、この両者から依頼されたら全く異なる立場になる葬儀社。そこに過去に書いた「事故の葬儀は被害者側の立場から」ということがある。
悲惨な事故の通夜や葬儀の場、そこでは人の世ではない光景を垣間見ることにもなる。被害者側の怒りが度を超えたら加害者側が被害者に見えることさえあるが、命の代償は重いもの。「度」の限界がないということを理解したい。
JRの大事故、鉄道マンや事務方の人達がご遺族に接する役がどんなに辛くて大変なことだと認識されただろうし、これから補償問題で新たな辛苦に苛まれるこ とになるが、そこで後悔しても間に合わない。だから「ミスは反省の範囲内で」という私の哲学が生まれ、異常と言われるほど臆病になって物事を考えるように なった。
塾生達のブログや掲示板の中で、4月の講座で切望したことがやりとりされていた。「塾生になった以上、加害者、被害者にならないように」ということ。それは上述した体験から発言したのである。
我々葬儀社が社会的に崇高で立派なプロの仕事と認識されるには、葬祭ディレクターの世界ではまだまだ遠い。
葬祭業に従事したなら「悲しみのプロ」を目指すべき。それには「命」「死」「生」を学ぶべき。日常の仕事で「死」に接し「生」を学んで欲しいと願うのが塾開講の趣旨。
塾生達は日本トータライフ協会のメンバー達と同様に、確実に「悲しみのプロ」に向かって行動を始めているような気がしている。
今日の<HOME>接続は、塾生「MAMADIARY」(女性司会者さんです)