2002-09-25
小説 「幕末物語」 完結編 NO 206
耳には聞こえなかったが、賂のやりとりのような光景を垣間見た大家は、恐怖感を抱いていた。もしも、これが偽者という ことになれば、<自身へのお咎めが>という心配でならず、大家という立場を逃げ出したいぐらいだったが、男が大店の主で賂という手段も考えられる。それだ けが安堵の種となっていた。
しばらくすると、先生が神殿中央に座した。そして、手をしきりに振るが、ずっと無言である。男に言われた役人達も正座し、静かな時間の中で先生の手だけが動いている。
中の成り行きを察知したのだろうか、外の連中も静まり返っている。それらは、順に伝えられていくからか、人垣を除序に無言に変えていく。
少しの時間が流れたが、何の変化も起きない。役人達が痺れを切らしそうな頃。男が立ち上がって喋り始めた。
「先生は、今、神事の始まりにお払いをなさいました。これから本儀式に移られます。無言のお祈りを捧げられますが、しばらくされると神様が降誕あそばされます。その際、先生は、私を呼ばれ、神様のお言葉を伝達されます。では、よろしいですかな?」
中にいる連中に緊張が走る。いよいよ何かが起きるのである。
男が「では、先生、お願い申し上げます」と声を掛けた。
先生が大きな手振りで神殿を崇めるような行為をする。しかし、何も起きない。
また、男が立ち上がった。そして、面白いことを言った。
「申し訳ございませんでした。今日は、まだ、初めの日で、この神殿が清められていなかったことを忘れていました。これは、私が忘れていたことで、先生の問題ではございません。早速にお清めを行います」
男は、丁稚から袋を受け取ると、先生の横に立ち、袋の中から白い粉のようなものを榊に向かって振り掛け、すぐに、下がると、「先生、お始めください」と大きな声で言った。
先生が、また手を動かし始めた。しかし、何も起きない。そう思った時、変化が起きた。先生の手が届くことのない距離に置かれた榊が、突然にガサガサと揺れ出したのである。
男が先生の側に近付き、耳を寄せる。先生が何かを告げているようだ。
それが済むと、男が立ち上がって伝達ということで解説を始めた。
「ご 覧のように榊が揺れた時、神様が降誕されたのです。この一段高いところは聖域と申し上げ、先生以外は上がれません。私はその代弁者として、伝達のお言葉の 時にしか上がれません。今、先生からのお言葉が私の耳に伝わりました。今晩、江戸市中の西の方で火事が発生する。互いに声を掛け合い火の用心につとめなさ いとのこと」
男の言葉を耳にしたのか、先生が神殿を向いたまま頷いている。男が言葉を続ける。
「そうです、ここで、余興のことも行ってみましょう。先程、お役人様にお渡ししたもの、あれは、実は、金子でございました。先生は、その金額を全くご存知ではないのです。ここで、伺ってみましょう。先生、さて、金額は?」
先生は、無言で手を上げ、親指と小指を付けて三本の指を示した。
「いかがでしょうか、お役人様。中身のご確認を」
同心が紙包みを開けた。そこには3両の小判があった。みんなが驚く。ここに新しい宗教の教祖が誕生したのである。役人のお墨付き、その噂の広まりには絶大な効果があった。
実は、先生と男はグルであり、男の描いた宗教商法は詐欺であったのである。この人物達が数日の内に大金持ちになったのは言うまでもない。
最後に種明かし。何で榊が揺れたのか? それは、振り掛けた塩に秘密があり、花瓶の中に入っていた鯰が苦し紛れに暴れただけのことである。