2002-12-02
あの世からの生還? NO 271
世界中でテロ事件が発生している。ターゲットにされるのは不特定多数。被害に遭遇された方や家族の心情がどんなものだろうか。
戦争の歴史の背景には、必ずと言っていいほど「宗教」の問題が絡んでいる。
人を変えてしまうのが戦争で、その要因になるのが「宗教」と「独裁者」ということであり、これも悲しくて愚かな人間という動物の宿命のような気がしてならない。
テロ事件の中に「自爆」というケースがある。身体に爆弾を巻いて突入するという行為。太平洋戦争時代の航空機による突入の歴史を思い出してしまうのは私だけだろうか?
自分を犠牲にして他人を殺傷する行為。そこまで人を変えるのが宗教と戦争と結論される訳である。
自爆したら「英雄」であり天国へ行ける。家族に幸せが訪れる。そんな洗脳は真に以って低次元な教育のうえにしか生まれない発想であるし、信仰する者だけが幸せになれるというような宗教の存在が残念でならない。
宗教の流布に不可欠なことが「あの世の存在」。単純に言えば、天国、極楽、浄土や、阿鼻叫喚の地獄のある仏教の六道の世界などがそれらであろう。
ここで気がつかなければならないことがある。あの世に行って帰ってきた人は誰もいないということ。
輪廻転生という思想もあるが、仏教で言われる49日の満中陰が過ぎてこの世に帰還した人なんて絶対に存在しない筈。来世が幸福か不幸か体験した人がこの世にいないのに、なぜか経典に基いて信じてしまう。
信じるだけなら許されるだろう。しかし、自分の幸せを目的に他人を殺傷する行為なんて宗教ではないと断言する。
宗教とは人と社会を幸せにするもの。不幸な人と社会を少しでも不幸でないようにするという、人の生き方、あるべき姿を説いたもの。そこから逸脱した宗教がどんなに多いか嘆かわしい限りだ。
遠い昔に爺ちゃん、婆ちゃんが教えてくれた「罰が当たる」「地獄に落ちる」という幼心に生まれた恐怖感がどこへ消えてしまったのだろうか。
私が道楽で書いた著書の一節に、「来世に夢を託して死を迎えることが幸せ」というのがあった。
『他人を殺傷したり騙した人生は、被害者達があの世で待っている』
自分が死を迎える瞬間に、そんな恐怖感に苛まれる最期は迎えたくない。
『苦労した。でも悪いことはしなかった。人を助けたこともある。感謝をしながら待ち迎えてくれる人もいるだろう』
そんな思いで終焉を迎えることが出来たら、それこそ幸せではないか。
宗教には、懺悔という教えもある。反省に併せて悔い改めるというチャンスと救いがあるではないか。そこに「後悔」だけはない人生でありたいもの。
せっかく「人」として生まれてきたのだから、自身に与えられた「命」を自ら断つことだけはするべきでない。それで他人を巻き込むことは、絶対に地獄に落ちると信じて生きて行こう。