2017-05-16

忘れられない歴史事実  NO 6963

ドニャ・パス号 元「ひめゆり丸」前号で「しまなみ海道」を「しまなみ街道」と誤変換していて恥ずかしいミスだが、帰路の新幹線「さくら」の車内で携帯電話がブルブル。尾道のピピの社長からの電話で、この独り言から「ぼちぼち尾道のお好み焼きを」と予想していたみたいで、新幹線の車内と伝えると新尾道へ向かう途中だと思われたかもしれないが、高松でうどんを食べて帰阪するところと答え、近々に「お好み焼き」を食べに行くからと伝えた。

デッキから席に戻って「尾道からの電話」と教えると「今度はお好み焼き?」と呆れていたが、社長とは再会したいと言っていた。

昨日の屋島には源平合戦の壇ノ浦も知られているが、山上から「瓦製の皿」を投げるのは源平合戦で勝利した源氏側の兵士が勝鬨を表すのに陣笠を投げた名残だそうで、知らない歴史の逸話を学ぶ土産話となった。

宿泊した旅館へ行くには有料道路を走行しなければならず、タクシーなら680円を負担することになるが、国立公園内にある宿泊施設なので様々な制限もあると想像する。

部屋から見る夕景は本当に美しかった・何枚か撮影したが、途中で雲が出て来て日の入り前のイメージが叶わず残念だった。

夕食も朝食も健康食材に拘っており、ご飯のお米は無農薬で初めて味わう感触に満足した。

過日に「国道」を「酷道」と情報交換するサイトがあると書いたが、ネットには心霊スポットやパワースポットに関する世界も賑やかだし、そんな一方に日本中にある様々な廃墟について情報を寄せ合うマニア達の存在があることを知った。

今回の宿泊地として選択した屋島もそんな廃墟が多く、旅館から別の道を通ってバス停の場へ行く途中に大規模な旅館が廃墟と化した建物があった。

途中で会った方に道を尋ねたら、「もう少し行くと旅館の廃墟があるからそこを曲がったら行くよ」と教えられたのだが、その道はお遍路さん以外では廃墟マニアしか通らないとも言われていた。

昔の屋島は賑わっていた。廃墟のサイトを開けると廃業したケーブルカーの山上駅もそのまま残っているそうだし、ケーブルカーの車両もそのままあると写真が掲載されていたのでびっくりした。

屋島の山上からのシャトルバス(前号では「舎取」となっていた)は琴電の屋島駅とJRの屋島駅の両方に行けたが、琴電なら途中で乗り換えなければならないみたいでJRを選択した。

次回の「お好み焼き」の旅には「こだま」で新尾道駅へ行く予定だが、昼食を終えたらバスで「しまなみ海道」を通って松山へ行き、道後の湯で温まりたいと考えている。

相変わらず神経痛に苛まれている、最も効果があるのが温めの温泉で温まることだそうだが、大阪駅からバスで1時間で行ける有馬温泉の湯の効能が高いと知ったので行きたいと思っている。

我々の年代になると夫婦での旅行が多くなる。人生終焉を迎えるにあって、病院の白い天井を見ながら心残りが少ないように行動することだ。

これまでに多くの方の葬儀を担当し、ご家族から故人のお心残りを伺ったことも多いが、万国共通であると言われている「あそこに行きたかった」「あそこへ連れて行ってやりたかった」というようなことが第一位と解説されている。

ノスタルジックな心情になることも少なくないだろう。我々の年代が「三丁目の夕日」の時代に興味を抱く背景にはそんなことがあるのかもしれないが、今回の屋島では修学旅行で訪れた際の情景が蘇った。

沖縄が日本に返還されてから46年目を迎えたそうだが、それよりも10年前に沖縄に行った時のことも懐かしい。1ドルが360円でパスポートが必要だったが、大変な暴風雨で「みどり丸」が遭難したことも忘れられずに記憶となっている。その時の体験談は過去ログにあるので省くが、船酔いで徳島沖から那覇港まで何も食べられなかったことを憶えている。

今日の写真はタンカーとの海難事故で衝撃的な犠牲者を出した「ドニャ・パス」号だが、元は琉球海運が那覇と鹿児島を結んでいた貨客船で、1963年4月に尾道造船所で製造され。その年の7月から就航したものだが、その1か月後の8月に那覇から鹿児島まで乗船した。

この船は1975年にフィリピンに売却されたが、火災事故を起こして現役を外れていたが、需要があって違法な改造が行われて客船として就航していたが、そんな中で海難事故に遭遇するという不運な歴史を残している。
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