2014-12-31

新年を前に  NO 4059

齢を重ねると月日の流が早いが、今年は「もう大晦日」と驚くような思いで迎えている。昨年は2回の入院があったし、今年も10月に軽い症状から大事を取って入院したが、これからは出立する時まで入院しないように努力しようと考えている。

毎日新聞の4コマ漫画「アサッテ君」が今日で終了となった。担当されていた「東海林さだおさん」にお疲れ様の言葉を伝えたい。「朝手春男」というサラリーマンを主人公とする漫画だったが、たった4コマで描いて表現することは想像以上に大変な世界だと考える。しかし40年間の歴史があるとは驚きの事実であり、心から拍手を贈りたい。

さて、別の今日の朝刊で目に留まったのが「今年に鬼籍に入られた人々」という見出しだった。随分昔だが、ある宗派の本山で行われた夏期講座の講師を依頼されて担当したが、私の講義の前に行われていた宗教者の講義に興味を抱いており、早目に行って許可を貰って受講させていただいた。

その人物の著書を何冊か貰ったこともあり、熟読していたところから素晴らしいご仏縁だと感謝しながらお会い出来たが、その時のご講義の内容で印象に残っていることがあるので紹介申し上げよう。

「私は導師を務めている時、弔辞を奉読される方がおかしな言葉を使用されることに強い抵抗感を覚えているのです。まずは『鬼籍』という言葉で。お浄土に往生された故人を『鬼』
と表現されることはおかしいと伝えたいのです」

「次に『草葉の陰』というのがあります。そこはまるでコオロギの棲む世界ではありませんか。どうしてこんなおかしな言葉が出て来たのでしょうか」

「絶対におかしいと思えるのが『黄泉の国』という言葉で、古事記の中にこれ以上汚い世界はないという意味になっているのに誰も指摘しないことが不思議でならないのです」

「葬儀で紹介される弔電の文章に『ご冥福を祈る』というのがありますが、『冥土』というのは真っ暗な世界です。そこで幸福になれとはおかしいとは思いませんか?」

「弔電の中に『安らかにお眠りください』というのが出てきますが、もう出て来るな眠ったままでいて欲しいと願っているとすれば問題では?」

そんな問題提起を次々にお話され、多くの受講者達に大受けしておられた。

受講者は若いお寺さんばかりだったが、2時間の講義時間はあっという間に過ぎてしまい、また何処かで機会があれば是非拝聴したい先生として印象深く残っている。

私のその時に話したのは「導師の後ろ姿」という内容が中心で、装束として着用される袈裟が導師を務めるのではなく、住職、宗教者とされての「人」が導師を務めるということを訴えたかったからだった。

宗派によって「引導」作法がないケースもあるが、大半の仏教葬儀はご本尊の前で故人に「引導」を授ける法儀が行われているが、我々葬儀に携わる立場は涙と平静の間に立って、遺族や会葬者に引導を授ける心構えが重要であるという僭越な考え方を申し上げた。

柩の蓋を開けてお別れが行われている最中、そこに花を手向けに来られる宗教者は少なく、やがて「お名残り尽きませんが」なんて決別の情を絶つ言葉を我々が発していることも引導ではないかという考え方で、それは、次に火葬場につながる問題であった。

炉の前で行われるご読経のひととき。参列者が焼香をされていよいよ納める時を迎えるが、ここで「お納めでございます」と決別の情を絶つ言葉を発しているのは我々だということである。

お別れや炉前でのひとときが、もしも交通事故の被害者で若い方だったらどんな光景になっているだろうかとご想像願いたいもの。そこには「ギャー」という悲鳴の世界があり、我々が発する決別の情を絶つ言葉は残酷と思われることも当然である。

そんな「ギャー」の世界で宗教者が、「はい、皆さん、どうかご安心ください。先程の葬儀の中で私は仏様の世界へ出立される法儀を行いました。ここにおられるのは『躯』であり、お返ししなければなりません。何の心配もありません。皆様の大切な方は仏様の世界におられるのです。では1メートルほど下がってご一緒に手を合わせましょう。はい、係りの方、お願いします」

そんなやりとりが行われる来年であればと願ってこの稿を結ぶ。

駄文の列記でしかないこの「独り言」をご笑覧くださいまして感謝申し上げ、心から手を合わせます。来年が皆様にとって素晴らしい年にと願い上げます。 九拝合掌

今日の写真は過日の再掲だが「アサッテ君」を。
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