2016-12-08

ご仏縁の不思議  NO 5052

日露戦争深いご仏縁のある広島の「ピピ」の社長のブログを訪問したら、昨日の号で偉大な作家「司馬遼太郎」さんの本を読んで心に留まったと紹介されていた。

葬儀の司会者である私を知って「久世栄三郎のクローンになろう」と目指した司会者がおられたが、その彼が「司馬遼太郎」さんの葬儀の司会を担当されていたことも不思議なご仏縁で、ふと彼のことを思い出しながらその文章を転載することに。

「二十一世紀を生きる君たちへ」  司馬遼太郎

さて 君たち自身のことである
君たちは いつの時代でもそうであったように自己を確立せねばならない
自分にきびしく 相手にはやさしく という自己を そして 素直でかしこい自己を

二十一世紀においては 特にそのことが重要である
二十一世紀にあっては 科学と技術がもっと発達するだろう
科学・技術が 洪水のように人間を飲み込んでしまってはならない
川の水を正しく流すように 君たちのしっかりした自己が
科学と技術を支配し 良い方向に持っていってほしいのである

私は 「自己」ということを しきりに言った 自己といっても 自己中心におちって陥ってはならない

人間は 助け合って生きているのである 私は 人という文字を見るとき しばしば感動する 斜めの画がたがいに支え合って 構成されているのである そのことでも分かるように 人間は社会をつくって生きている 社会とは 支え合う仕組みということである

原始時代の社会は小さかった 家族を中心とした社会だった それが 次第に大きな社会になり 今は国家と世界という社会をつくり 互いが助け合いながら 生きているのである

自然物としての人間は 決して孤立して生きられるようにはつくられていない
このため 助け合うということが 人間にとって大きな道徳になっている
助け合うという気持ちや行動のもとのもとは いたわりという感情である
他人の痛みを感じることと言ってもいい やさしさと言いかえてもいい

「いたわり」 「他人の痛みを感じること」 「やさしさ」

みな似たような言葉である この三つの言葉は もともと一つの根から出ているのである

根といっても 本能ではない だから 私たちは訓練をして それを身につけねばならないのである

その訓練とは 簡単なことである 例えば 友達がころぶ ああ痛かったろうな と感じる気持ちを そのつど 自分の中でつくりあげて いきさえすればよい

この根っこの感情が 自分の中でしっかり根づいていけば 他民族への いたわりという気持ちも湧き出てくる 君たちさえ そういう自己をつくっていけば 二十一世紀は 人類が仲よしで暮らせる時代になるにちがいない

鎌倉時代の武士たちは 「たのもしさ」ということを 大切にしてきた
人間は いつの時代でも たのもしい人格を持たねばならない
人間というのは 男女とも たのもしくない人格に魅力を感じないのである

もう一度くり返そう 先に私は自己を確立せよ と言った
自分にきびしく 相手にはやさしく とも言った
いたわりという言葉も使った それらを訓練せよ とも言った
それらを訓練することで 自己が確立されていくのである
そして ”たのもしい君たち” になっていくのである

以上のことは、いつの時代になっても 人間が生きていく上で欠かすことができない 心がまえというものである

君たち 君たちはつねに晴れあがった空のようにたかだかとした 心を持たねばならない
同時に ずっしりとたくましい足どりで大地を 踏みしめつつ歩かねばならない

私は 君たちの心の中の 最も美しいものを見つづけながら以上のことを書いた

書き終わって 君たちの未来が真夏の太陽のように 輝いているように感じた

私は20年前にご逝去された氏の作品で「坂の上の雲」が好きで、今日の写真は日露戦争の写真にしたが、太平洋戦争勃発となった「ニイタカヤマノボレ」の真珠湾攻撃の日でもあり、上述の文章は戦争に対する氏の思いが若い人達に伝えられているようだ。
真珠湾への慰霊のために行かれる安倍総理の行動は悪くないが、数字の強さで何でも強行する最近の国会風景は異常である。野党の疲弊も顕著だが、周囲がイエスマンばかりだと滅ぶことも歴史が物語っていることを忘れられないようにしたい。
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