2003-03-28

変化する葬儀    NO 385

人生最大の衝撃は、子供を亡くされること。儒教の強い国では「親不孝」という考え方から、葬儀を行わない風習もあった。

 昨夜、ご両親が悲嘆にくれられる御通夜が行われていた。

亡くなられたのは30代のご長男。それも突発的な急病でのご逝去。弔問に来られた方々の「信じられない」というお言葉と表情が式場に溢れていた。

 弊社の新人3人が式場に付いていたが、『悲嘆』という言葉の意味を少しでも学んでくれたと信じている。

 辛い思いを体験すると他人にやさしくなれるという言葉もあるが、体感に勝ることはなく、共に涙を流しながら時間を過ごすことは貴重な体験。

 弊社は、私をはじめスタッフ全員の涙腺が弱い。中でもマイクを担当する立場にある者が特に涙脆いのが「泣きどころ」。

でも、何年経っても変わることはないだろうし、変わって欲しくないとも願っている。

 私が明日に担当する葬儀は、奈良県からお寺様がお越しになる。大阪とは習慣が少し異なり、式次第にも微妙な違いがあるところから打ち合わせが重要となってくる。

 宗教や習慣が異なろうが「悲しみ」に変わりはない。

数日前に担当した葬儀の際、火葬場を往復する車内でのお寺様のお話に、「これからの葬儀は、導師と葬儀社が綿密に打ち合わせを行い、故人の葬儀をどのように進めるべきかと意見交換をするべきだ」というお言葉があり、思わず賛同してしまった。

 過去に東北のお寺様と激論を交わしたことが懐かしい。そのお寺様は「葬儀は宗教者がつとめるもの。導師と故人の世界である。葬儀の司会なんて全く必要ない。『只今より始まる。これをもって終わる』という、開式と閉式の言葉だけでよい」とおっしゃられた。

 当時、私も若かった。「それは誤りです」と反論したからたまらない。激論は10分間ぐらい続き、「面白い、勉強になった」というお言葉で集結したが、そこに至った私の反論は秘密とさせていただきます。(「参列者はどうなるのですか?」ということがヒントです)

 その頃からすると、葬儀は本当に変化してしまい、業者任せの葬儀なんて考えられない時代が到来している。

 弊社の葬儀は、他社とは全く異なるオリジナルな形式も有している。ご体感をくださったお寺様にも大好評を頂戴しているが、その方々に共通していることは、ご遺族の悲しみを深くご理解されておられること。

そんなご体験から、檀家さんのご不幸でお勧めくださることも増えてきたが、ご遺族や参列者から賛同されているのだから悪くないことだと信じている。

 「批判的な意見はないのか?」 そんなご心配をされるお方もおられる筈なので正直に申し上げるが、ご遺族の「悲しみ」をご理解されないお寺様の場合、お寺様がつとめられる時間を外して行っている。

 葬儀の導師をつとめられるお寺様。お寺が導師ではなく、宗教者という「人」が導師であるとの意識の異なりが、上述のような差異になるのかも知れないと考えている。
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