2003-03-04

忘れられないご夫婦  中編   NO 362

彼女の家族は、両親、そして、二人姉妹。彼女は長女だった。当時、大手私鉄の駅長をつとめていた父は、34歳という若さで逝去。そのため、母は、厄年である33歳での若後家となってしまったのである。

 母は、再婚することなく手に技術を身に付け、昭和の激動戦乱期に、見事に二人の娘を育み、昭和54年に74年間の人生の幕を静かに閉じた。

 彼女とは見合い結婚であった。町の世話好きなおばさんの口入れで、今のオヤジに引き合わされ、恋愛らしいプロセスの体験もなく、親の言うがまま結婚した。

 後年、彼女とオヤジは、共に職場などで、見合い結婚だと言っても誰も信じてくれなかったという思い出が懐かしい。

 結婚に纏わるエピソードを紹介しておこう。彼女は19歳であった昭和24年の暮れ、A女専3年生で、翌年3月に卒業を控えていたことから、卒業前の学生結婚となるが、この学校は厳格で、学生結婚はご法度。事実が分かれば退学処分ものだったらしい。

 一方、オヤジは26歳、駆け出しの貧乏サラリーマン。戦中の昭和18年、京都の大学に入学したものの、その頃までの特典「徴兵猶予」が突然に取り消され、いわゆる「学徒出陣」として戦場に駆りだされた。

 幸い、命は「永らえる」こととなったが、2年間の辛くて厳しい戦争体験は、私の人生観に大きな影響を与えることとなった。

 戦後、復員、復学して、昭和23年に卒業。やがて、大手企業に就職をした。

 さて、結婚式は、彼女の家で近親者だけによる「ささやかな」宴だった。

 オヤジは、世事に疎いということを理由にして、結納金なし。結婚指輪も贈れず、彼女の家に転がり込むようにして住み着いた。

 結婚世活は、気配り屋の長女と、呑気な末っ子との組み合わせで、案外、よかったのかも知れない。

 後年、彼女がオヤジによく言った言葉は、「あなたは極楽トンボ。結構なご身分でしたね」
それには、ただ納得。 

 昭和28年、彼女が教職の道を選んだことが、二人の結婚生活にとって大きな転機となった。

 教師としての「立ち振る舞い」は、あたかも天職に巡り合ったかのように輝き、積極的で活発であった。

 それは、一方に、性格的な「粘り強さ」も「性」に合ったのかも知れない。子供の目線に立って考え、物事をこなす。よく叱り、よく褒める。

  そうそう、こんな話があった。教育ママの風潮が盛んだった頃、PTAの席上で、子供の母親から、母親主導の干渉がましい教育観の発表があり、意見を求めら れた時、「育児」の前に「育自」。つまり、子供が納得できる中身のある器量の自己啓発があってこそ、言葉なくとも子供はしつけられ、親の背中にすべてが凝 縮しているものだと、親達の反省を願って言葉を返したそうだが、それは、いかにも彼女らしいところである。

      明日に続きます
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