2004-05-12
悲しみの中で NO 790
何かの本で読み、心に残っている言葉がある。
『人生は、今、今、今の数珠つなぎ』
如何だろうか、日頃の仕事で「享年**歳」という言葉を発している立場。この言葉の意味に特別な思いを抱いてしまう。
若くして亡くなった方、或いは百歳を超えられた方、時間と死は誰にも平等に与えられているものと教えられたが、過去、現在、未来の言葉を思い浮かべながら、人生とは「どのように生きられたか?」が大切だと考える。
随分昔の話だが、先天的な病気で青春時代の3年間を、ずっと病院で過ごされた20代の女性の葬儀を担当した。
深い悲しみにくれられるご両親から、意外な言葉を耳にした。
「短い生涯でしたが、与えられた時間を精一杯生きてきました。そして、私達の愛で限りなく包んできました。お葬式は、娘との思い出を深く心に刻みたいのでお願いがあるのです」
家族だけの時間を24時間、それが強くご要望されたこと。
親戚や近所の方々と相談し、亡くなられた当日の弔問者に、ご遠慮いただく協力体制が進められたのは言うまでもない。
葬儀は、ご自宅で行われたが、通夜を終えた後の応接室での打ち合わせ。そこでご両親が暗涙されながら、私に見せてくださった手紙があった。
それは、娘さんが書かれた感謝の言葉が綴られたもの。「私が死んだら両親に」と看護婦さんに託されていたそうだ。
これは、お涙頂戴の安っぽいテレビドラマでないのでご理解を。
「お父さん、お母さんの子供でよかった。お父さん、お母さんを悲しませることが辛いですが、きっと天国で元気になれるような気がします。出来たら、私の部屋、しばらくそのままにしておいてください」
便箋は10数ページに及んだが、最初のページが上述の部分。そこから先は涙がレンズになってしまい文字が見えなかったことを覚えている。
ご両親のお話では、その手紙をご覧になり、娘さんが「立派に生きた」という確証を得られたそう。
彼女の部屋だが、今でもそのままにされていると、近所の方から知るところとなった。