2006-03-07

素晴らしい出会い  NO 1447


 知人が親戚の葬儀で他府県に行ってきたそうだが、そこで進行に関して弊社に良く似た形式があったと教えてくれた。

 それもその筈、その葬祭ホールの総支配人は大学卒業と同時に弊社で修行をした人物、また、これに関係する2人の男女も弊社の社員だった。

「道理で!」ということで安堵したようだが、私が考案したオリジナル「奉儀」は、全国各地で流行しつつあるようだ。

 日本トータライフ協会のメンバー達、そして塾生、またセミナーや講演を通じて広まってきた背景には参列された方々の体験という後押しがあり、賛同と歓迎が生じたものと自負している。

 発案者として言いたいことはただひとつ、温故知新の心で本義を「学び」軽々しく「真似ぶ」ことだけはないようにと願っている。

 学校には「卒業式」があるが、その正式な呼称は「卒業証書授与式」であり、その意味を理解せず騒いでいる愚かな連中にも提起したい問題である。

「奉儀」の発想に至ったのは葬送儀式の本義であった。「儀式の始まり、そこには『お光り』『お香』『お花』と三つの原則がある」ということ。それを宗教者達が行う「法儀」ではなく我々が行うのだから「奉儀」と命名した訳である。

 そこには納得の生まれるコメントと音楽が不可欠、だから専用の音楽を求めて作曲依頼が始まった歴史が懐かしいところ。

 結果として、はっきりとした答えが出ている。偽者が行えば単なる「ショー」であり、本物が行えば「儀式」になって会場空間を儀式空間に変える。この「神変」こそが最も重視したいところで、やる以上は真剣に取り組んで欲しいものだ。

  担当させる女性スタッフ達に伝えたのは、「君達は天使や巫女さんの立場になって努めなさい」ということ。これを分からずして行動すると「後ろ姿」に心の乱 れを感じてしまい、後ろ姿を重視してデザインされたリフィン・ブランドの制服を身に着けても美しさを醸し出すことは出来ないと断言する。

 豪そうなことを書いて宗教者から叱責されるだろうが、これらは僧衣を身に着けられた方にも言えること。「衣」が導師を努めるのではなく中身の「人」が引導を授けるもの。

 担当してきた葬儀、喪主さんのご謝辞が素晴らしかった。お見送りした際、そんなお声が会葬者から多かった。これで今日の葬儀に大きな意義が生まれ、<これこそ『式』だ!>と思いながら帰ってきた。

 アメリカの孫から電話があった。娘ファミリーのHPに孫達の写真があり、爺ちゃんへというメッセージを手にしていた。帰国したら入学式が待っている。今年は桜の開花が早そうで、記念写真を満開時に合わせるのが難しいかも。そこで早めに撮影することも考えたい。

今 日の<HOME>接続は「サンサンてるよ」さん。彼女のブログで「金子みすず」さんに触れられていた。私が「金子みすず」さんの詩に出会ったのは30年ほ ど前、それこそ「こんな角度から物事の視点が!」と衝撃、大きく感化されることになってこの歳まで過ごすことになって感謝。人生の財産は人との出会い、そ のご仏縁に手を合わせる。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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