2017-06-26

リハビリの中で  NO 7001

コネクティングルーム散歩していたら前方から杖を手にされた高齢の男性が歩いて来る。側に車椅子を押しながら奥さんが寄り添っている。脳梗塞で緊急搬送されて治療を受けられ、リハビリを経て退院されたところだった。

半月前には車椅子に乗っておられたが、杖を手にリハビリのために歩いているそうだが、ここまで回復されたら見通しは明るい。

同じ発病で重い後遺症のある人達も知っているが、杖を手に歩ける状態なら喜ばしいことで、壊死してしまった脳内の血管が回復することはないが、後遺症となっている一部が奇跡的に回復することもある。

私は右半身不随でどうにもならなかったが、奇跡的に動き始めて自分でも驚いたが、病院の医師や看護師さん、そしてリハビリ担当の療法士の先生の驚きも尋常でなかった。

声帯の半分の機能を失ったが、言語のリハビリに大変な苦労をして会話のコミュニケーションが可能となったことも嬉しいことだった。

左半身に温覚と痛覚の麻痺という症状がでていて、入浴すると左半身が水風呂みたいに感じるので気持ちが悪いのは当たり前だが、注射の針を刺すのは痛みが感じないので左腕でお願いしていた。

退院してから別の病気で何度か入院をしたが、点滴を受けるのに左手をお願いしたら「痛みを感じない腕は点滴が出来ません」と言われ、その理由として漏れた場合に分からないからと知った。

最近、入浴したら左半身の水風呂感覚が薄らぎ、抵抗感が和らいで来ているし、医院で採血をされる際に左腕を出すと針を刺す時にチクット感じるようになっているのだから不思議である。

一昨日に医院へ行った際にその事実を伝えたら、歩くことを続けていたら知覚障害が改善することもあると聞いたので無理をしても散歩をしようと思っている。

しかし、相変わらず目の調子が悪い。そんなところから「幸せ列車」で紹介されている「10年前の独り言」から転載を。

想 定 ?  NO 1898   2007-06-24

昨号の続きみたいになるが、自宅前のお医者さんに自転車がいっぱい。土曜日だからということだけではなく、最近は病気の人達が増えているのかもしれない。

前日の金曜日の朝、2週間毎の薬をいただきに行ったが、中に入ると待合室に座るところがないぐらい。そこで夕方に来ますからとお願いして戻ってきていた。

領収書と服用する薬の説明書を毎回貰っているが、久し振りに読んでみたら結構強い薬を服用しているみたい。そこでネットで副作用について勉強、まるで医学書みたいな資料がいっぱい掲載されていたので驚いた。

それぞれの副作用を確認、<なるほど!>とか<そう言えば!>と思い当たることがチラホラ。「薬」とは「毒」の裏返しであることを再認識させられた。

過去に社会問題になった薬害事件も少なくないが、薬の研究者も臆病であって欲しいと願ってしまう。

今日、今、自分が生きているのは幸運だから。そう思わなければならないのが人間社会。人は、いつ災難に遭うか分からず、そのパーセンテージが日々に高まってきている事実を知るべき。

架線事故で何時間も列車内に閉じ込められたら病気になるのも当たり前、そんな列車に乗ってしまった運命を嘆き悲しんでおられた人もいた筈だ。

「生かされている」と考えるべき人生、それはいつも死を迎える瞬間まで宿命と対峙している日々を過ごすということだろうし、偶然ではなく全てが必然と理解せざるを得ないことを学び、そこに「悟り」という世界があるような気がする。

素晴らしい人、そしてそうではない人との出逢い、それらは「出会い」と「出遭い」に別れて人生を大きく左右するものだし、幼い頃、青春時代、そして結婚から子供誕生と考えると、出逢いと言うものは連綿と末代にまで影響を及ぼすものとなるだろう。

山陽道で投石していたという3人の高校生が検挙されたニュースがあった。彼らは山陽本線の線路上にも石を置き、その動機が「事故や脱線が見たかった」と言うのだから恐ろしい話し。誰が主犯かは知らないが、こんな行為に走る出会いのことを考えると悲しく、親の心情を思うと余りあるものがある。

アメリカの遊園地で信じられない事故が起きていた。確か13歳の少女が被害者だったが、まさかあんな事故に巻き込まれるなんて誰も予想しなかっただろうし、エキスポ・ランドの事故を改めて思い出し、孫達が危険な遊具で遊ばないことを祈っている。

毎日、世界中でどれだけの人が「加害者」「被害者」になっているのだろうか。そんなことを考えると誰でも今日存在することに感謝するべきだし、後悔なく人生を終わりたいものである。

何度も書くが、多くの素晴らしい人達との出逢いがあった私は幸せ者。多くの故人を送る仕事に携わってきた人生だが、宗教家とは離れた考え方で「霊」の存在を捉えるとすれば、一般の人達には次のようなことで比喩させている。

「5組の夫婦の会があり、毎年春と秋に旅行に出掛けていました。しかし、その中で1人の男性が病気で亡くなってしまった。そして、次の旅行の際、悲しみの伴侶の横に亡きご主人の席を設け、料理も用意してもらうことにした。さあ、乾杯タイムだが、そこで献杯も行って食事が始まった。」

さて、どうだろう、そのご主人の席に亡きご本人は来られていないのだろうか。確かに姿は見えないし料理も減っては行かないが、参加者全員にその人の存在を感じる設定があるではないか。そのシチュエーションこそ「霊」を意識する場であり、そこに必ず存在感を感じる筈で、交わされる思い出話が最高の慰めの薬となるだろう。

今日の写真は何度か利用したことのある湯郷温泉「ポピー・スプリング」のコネクティングルーム。孫を伴っていると便利である。
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