2003-09-10
司会者泣かせ NO 542
最近のNTTさんの弔電は、バラエティーに富み過ぎている。
縦書き、横書き、厚い薄い、右用紙に左用紙。中には、用紙が固定されていないのもあり、順に並べて代読する時、百人一首の『坊主めくり』より強い恐怖感を抱く。
これは、ハンドマイクを好む司会者たちには極めて不評。しかし、これも現実。与えられたら代読をしなければならない。
漆塗りの重くて豪華な弔電がある。聞くところによると5000円ぐらいもするそうだが、<無駄なこと>と思ってみても、弔電というものが「力関係」で下から上に送るもの。だからそれも仕方のないことだろう。
1万人以上の方の葬儀で司会を担当し、いつも思っていたのが弔電を代読するという不可思議な式次第。肩書きの順に並べ、故人にまったくゆかりのない議員を先に読むなんて、いかにも日本的な慣習なのか?
これは、送る側にも責任がある。簡略化と形式化に押され、定番となった文章内容。ひどい時には10数通も同文が並んでしまう。
大切な取引先の葬儀に弔電を送る。そこで最も大切なことは「内容」。「順なら最後だが文章に感動した。トップに読んでくれ」と言われるような弔電を創作したいもの。
義理的参列者が大半の葬儀。そんな中で義理的弔電が代読される。それも導師が重要な儀式を終えたクライマックスの時間に進められている。
「弔電なんて、一般会葬者が焼香中に流しておきなさい」 そうおっしゃるお寺様も少なくないが、悲しみの遺族たちが内容評価で順を決定され慰められる。そんな素晴らしい弔電なら意義も生まれるだろうし、会葬者に楽しみ?も増える。
大規模な社葬なら、1000通や2000通もある。どこの社葬でも順位で悩んでいる事実がある。
「どこで線を引くか難しく、困っているのです」「何通まで可能ですか?」
そんなご質問を頂戴するが、「出来たらすべてを割愛され、ご祭壇にお供えされておかれたら」と返している。
「弔電代読なし」、そんな社葬を何度も体験したが、参列者から賛同と歓迎されたことはあったが、「失礼だ」との不評やクレームは一度もなかった。
近い将来、社葬の大半がホテルで行われることになり、無宗教形式が主流となってしまうだろうが、その式次第の中で「何を行うべきなのか?」。そこにプロデューサーと司会者のシナリオ創作力が求められてくる。
過去に、社葬の意義を何より重視された「式」だけのホテル葬が行われた。弔辞と謝辞を含めて10名の方が祭壇前で語られる。参列者が「おやすみ」されて当 たり前の式次第。それを「次は、何が?」という興味を抱かせ、時間を感じさせないテクニック。それには奉呈者一人一人のつなぎの時間に何をすべきか。
そんなシナリオ構成が、プロの仕事で最も遣り甲斐のある世界でもある。
そうそう、結びに、過去に書いた大切なことをもう一度。
弔電の中に「線香入り」がありますが、相手の宗教を確認されるべき。クリスチャン、神道、無宗教なら「非常識」になってしまうのです。