2023-08-22

伊勢のこと  NО 10003

中六 満身創痍の状態で起きてご飯を炊く。昨日にヘルパーさんが買って来てくれた「ブリの照り焼きを電子レンジで温めて食べたが、今日はリハビリの日なので準備をして玄関で待っていても車が来ない。しばらくすると先生が来られて「今日は疎開道路の日です」と言われ、横断歩道を渡って車の所へ行った。

何時も吹いていないような風が吹いていたので天候があれそうだと想像していたら、到着してしばらくすると空が暗くなり雷鳴が聞こえて強い雨が降り始めた。車の中で聞いた話だが、先生に子供さんが誕生したみたいでスマホで写真をみせて貰った。男の子を期待されていたみたいだが、かわいい女の子だった。

右目がおよいよ悪くなり30パーセント程度しか見えなくなった。飛蚊症で5匹ぐらい存在していたのだが、ある日に団体で流れて行き、それは眼科の診察でレザー光線を受けなければならない症状で、左目も3か月ぐらい経ってから同じ症状が出た。

医院が1週間休診の時に血圧が異常に高くなり、結果として左目の血管を詰まらせてしまい、眼科で治療をしていただいたが、次々に病気が生じるので最悪だ。

「膵臓がん」だけはなりたくないと願っているが、明後日に採血検査の結果が得るので恐ろしい。異常な激ヤセは尋常じゃない。腕時計のベルトが余ってしまうほどで、ぼちぼち本気で自分の葬儀のことを考えておかなくてはいけないようだ。

私の葬儀は神戸の山の手の迎賓館という式場で行う。家具調のグランドピアノがある部屋でポールモーリア作曲の「蒼いノクターン」を演奏して貰って行う望みだが、果たして夢は叶うのだろうか。

導師は私とご仏縁の深いお寺様をお願いしたいし、忽滑も曽於のお寺の納骨所を希望したい。
妻と団参であちこちに参拝したが、あちこちの善光寺に参ったことが印象に残っているし、山口県の仙崎のお寺2か所と「金子みすず記念館」に立ち寄ったことも忘れられない。

前号で伊勢のことに触れたが、母方の実家の奥さんが亡くなられた歳に夫婦でお通夜に間に合うように行ったら、その地は先に火葬されるそうで、自宅に家族はおられなかったが、それを教えてくれたのは幼馴染で、彼が出世が足らのことを話してくれた。

私は小学校1年生と2年生を分教場で過ごしたが、その当時に昭和天皇の行幸があり、竹の棒で作った日の丸の旗を手に現在の近鉄志摩線の沓掛駅の近くで車列の向かって降った記憶があり、その隣にいた人物がその出世頭だそうで、警察畑を定年退職した後に伊勢神宮の警衛のトップに就任していたそうで、妻の友人達と伊勢神宮に参拝した際、警衛の方に彼のことを聞いたら、2年前に亡くなっていたそうで寂しかった。

昨日、NHKの映像の世紀でマッカーサーの子を採り上げていたが絵、その中に昭和天皇の行幸のことが紹介され、私が旗を振ったのはそれだったことが判明した。

近鉄志摩線も当時は「志摩電鉄」で鳥羽と賢島ヲ結んでいた。

私ん通っていた分教場は「いざわ小学校」と呼ばれていたが、伊勢神宮の流れのある伊雑宮の神社も「いざわ」と読み、日本三大田植え祭りの一つがある神社でもあり、その数ぐ前に知られる鰻料理店の「中六」があり、数年前に妻と青峯山に登ろうとトライしたが途中で断念して電車で移動して「中六」へ行ったら、まだ昼前なのに「本日は終了しました」という貼り紙があって食べられなかった。

夕食は食欲がなく、「粥」と「コーンスープ」だけにしたが、「コーンスープ」もいっぱいあったのに全てなくなった。熱中症にならないようにhayuちゃんが送ってくれた「もち吉」の塩気の利いた煎餅を食べている。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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