2016-06-30

医師への謝礼  NO 4901

高野山昨日「水曜日」はメールマガジン「まぐまぐブログ」の送信日。土着した習俗が宗教より強いという例として火葬してから通夜や葬儀が行われる地域がある事実に触れ、一方で「この地域は**葬儀社に決まっている」という自治会からの横やりも紹介しておいた。

そして、2006年4月9日号の「独り言」を再掲するが、これは、この独り言を開かれたある地方の看護師さんからメールが届いたことから、採り上げた内容だった。

彼女もブログで「独り言」を発信されており、「葬儀社の社長も独り言を!」と驚かれ、入院での看護師さん体験談に興味があり「もっと書いて」とお願いされた。

そんな今日、友人から「相談に乗ってよ」と電話があり、私と同年代の女性を伴ってやって来た。

伺ってみると近々にご主人が大手術をされるそうで、相談というのはその際に医師に対する謝礼をどうするかということだった。

友人は「どのぐらい包んだの?」と私に問い掛けて来た。世間には「それこそ『生き金』だ」なんて風評も高いが、「包まなかったよ」と返すと「嘘!」と一笑して信じてくれなかった。

テレビ番組で「医師への謝礼」というテーマがあり、全国で1年間に3000億円程度の謝礼金があるだろうと報じていたが、手術される患者数からすると<そのぐらいは?>と想像出来る額であった。

私の手術に関してどうするか悩んだことも事実で、妻がお世話になっている数人の医師に相談したみたいだが意見が分かれ、最終決断は私ということになった経緯があった。

正直に言うと、用意をしており、金封の上部に天眼鏡で見なければ読めないような小さな文字で「きもち」と書き、下に普通の大きさで久世と毛筆で書いていた。

それを担当医師に手渡すことで確かに安堵感が生まれるのは事実だが、なぜ差し出すことをしなかったかと言うと「裏口入学」みたいな罪悪感を抱いたからで、手術に失敗してあの世に行ったら「裏口組はあっち」なんて区分けをされたら嫌だったから。

病気は経済的に恵まれた人、恵まれない人に関係なく訪れるもの。そこでお金で安堵感を買えるというのは不公平ということを感じたからで、退院して落ち着いてから「有り難う」という感謝の思いを伝えに参上しようと思っている。

そんな話をしたら友人が笑って「お前らしいな」と言ったが、来られていた奥さんには「包むべき、そしてご主人に安堵感を」とアドバイス。ちょっと表情が明るくなられたみたいでホッとしたが、そうすることで奥さん自身にも安堵感が生まれるだろう。「手術中」と赤い文字で点灯している手術室、控え室で待つ家族の安堵感も大切なことは確かである。

医は「仁」に「博愛」という文字が似合う。それらは仏教の「布施」の教えにも近いだろう。「悲田院」という四天王寺にゆかり深い言葉もあるが、両者に共通することは「労力に対する報酬ではない」ということ。だから相場なんて存在しない世界であろう。

何やらややこしくて整理の付かない内容となったが、皆さんそれぞれに様々なご意見がある筈。患者になって初めて知ること。患者の家族になって初めて知ることもあるだろうが、出来たら手術なんて体験したくないもの。どうぞ健康で、そう願って今日の「独り言」を。

今日の写真は「幸せ列車」で書いている「短編小説 女将シリーズ」の今日の号で女将が参拝している高野山を。
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