2012-07-04

その瞬間まで  NO 2976


 昨日、東京で東京弁護士会主催による「尊厳死法案」に関する討論会が行われた。この法案は超党派の国会議員達が参集して論議してきたテーマで、患者の会なども参加したようだが結論に至ることは難しかったようである。

 医学の進化発展によって「人」の終末医療に関する問題が表面化するのは当たり前だが、それを法律で決めようとすること自身が横暴な考え方で、医師達の宗教観にも左右される複雑な問題であり、議員が法案決定しようと行動に強い抵抗感を抱いてしまう。

 この問題に触れたのは30数年前に書いた愚書「お葬式と春夏秋冬」の中だが、安楽死について法で決めるようなことするべきでないと書いたことを憶えている。

 脳死や植物人間という嫌な言葉もあるが、そんな状態になった患者の立場や家族の心境を考慮することは簡単ではなく、その最終判断を医師や弁護士に委ねることも非人間的行為のような気もするのである。

 これまでに多くの方々の葬儀を担当し、ご遺族となったご家族からご終焉までの様子を伺ったことがあるが、病気などによる「自然死」とは本当に人間らしい終焉の迎え方と言えるかもしれないと考えてしまう。

  誰も事故や事件の被害者としてこの世を去りたくないが、大切な家族が病院のベッドの上で意識不明のまま横たわっている状況を思い浮かべることも大切ではな いか。本人が1秒でもこの世に留まる尽力にあり、家族が一秒でも存命して欲しいと願う関係が命の世界。それを法律で左右しようとするのは深慮が欠如してい ると指摘したいものだ。

 寄り添う家族に対して<大変な心労と負担だ。このままでは家族も倒れてしまう>と考える医師もおられるかもしれない。そこで重視しなければならないのが「宗教観」で、医学の勉強と共に宗教を研鑽する必要性もあると考えたい。

  こんな重要な問題を、今の国会議員連中で「法案」に向かって話し合うことが大きな間違い。近い将来に自身に訪れるかもしれないという立場になって学ぶ姿勢 こそが大切な筈。人の様々な臨終の光景や、自身が入院体験をして「あの世」を垣間見た体験なくしてこの問題は語れない。

 これまでの人生 で7回も入院体験したことは自慢にはならないが、奇跡的ということも何度かあり、誰よりも「生かされている」という思いは抱いているつもり。手術から生還 し、鳳凰の柄に包まれた部屋で二日間過ごした不思議な体験をしたこともあるが、それらは私に神仏が体験を与えてくれたようにも思えてならず、そうでないと 結論に至ることが不可能な出来事となっている。

 数号前に「検死」について触れたが、テレビドラマの「臨場」の人気が高く、映画化されて話題になっているようだ。

ある宗教者が「死は前からやって来るものではなく、後ろから襲って来ることも知るべき」と言われたことも忘れてはならないし、いつか必ずその瞬間が訪れるが、その時まで残された時間を後悔しないように生きたいではないか。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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