2007-09-17

終焉のひとこま  NO 1977


 友人の割烹は「すっぽん料理」専門で、その世界ではかなり名が知れ、遠方からのお客さんも多い。

 誤解されたくないので書くが、これまでの生涯で「すっぽん料理」は一度も口にしたことはなく、いつも茶蕎麦など、私専用のオリジナル健康メニューとなっている。

 そんな彼の店に「すっぽん料理」のスープ持ち帰りという電話のお客さんが多く、入院されている方や自宅静養されている方の家族からの依頼というケースが見られる。

 カウンターに座っている際、お客さんがスッポンの鍋コースやスープコースを注文されると、目の前で料理の光景が見えることになるが、私は、いつも見えない方向に目を向けることにしてきた。

 しばらくすると「これ、腎臓に」「これ、貧血に」「これ、眼の悪い人に」なんて解説をしながら、酒やジュースで割った血液や内臓が出されているが、その言葉を耳にするのも苦手な私である。

 この店の常連さんだった方が入院され「スッポンのスープを」と所望された出来事も何度もあったが、「スッポンで元気になれた」と退院されて喜んでいたお客さんと会ったこともあった。

 人の入院生活や臨終時には様々なドラマが生まれる。何も食することが出来なくなり、点滴だけというのは辛いもの。それで好転する期待があれば耐えられるが、人間とは、食する行動なくしては本来の尊厳が遠ざかってしまうように思える。

 ご遺族から故人の闘病生活を拝聴することが多いが、「食べたいと言っていた物を食べさせてやるべきだった」との後悔の言葉も少なくなく、終焉という看取りの中で葛藤された家族の思いが伝わってくるのも悲しいものだ。

 医師や看護師さんの言葉を厳守するのが家族の立場だが、中には「内緒でカキ氷や巨峰のジュースを飲ませたら喜んでね、『おいしい』と言ったあの嬉しい表情がよい思い出となった」と仰った方もおられた。

 癌のように強烈な痛みを伴うケースでは、鎮痛を目的としてモルヒネ系の薬剤を用いるが、一定量を超えると意識障害という副作用が生じ、本人と家族の対話が通じないという悲しいことになる可能性が高く、「看取り」でのこの問題が医師の判断に委ねられるのだから大変だろう。

  30代の頃に参加した心理学セミナーで、「人間が死を迎える瞬間まで機能しているのは聴覚である」という専門家の言葉が強烈に残っているが、その後、知り 合った医師達からも同じことを聞き、病室での「看取り」の際、耳から感謝や別れの言葉が伝わるには、鎮痛作用を少なくし、意識が通じる状態が重要であると 理解しておきたいものである。

「有り難う」「ご苦労様」「先に逝って待っててね」「爺ちゃんと再会してね」なんて送る言葉が通じて欲しいが、その前においしいジュースがプレゼント出来ればとも考えたい。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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