2024-03-07

誕生日  NО 10111

二十代の終わる頃、私は葬儀と言う世界の遅れた現実に気付き、何とかしなければとの思いに駆られ、突き詰めて考える時間を造ろうと行動することにし、書店を回って200冊ほど書籍を購入し、キャリーバッグに入れて大阪の頭部の高台にあるホテルに連泊を申し込んだ。

部屋の窓から大阪市内が眼下に見える。夜になったらびっくりするほど夜景が美しくて別天地と言う環境だった。

ホテルの支配人に話して勉強タイムを過ごすと伝えて部屋で取り組むことになったが、まずは寝転んで天井を見つめ、葬儀社という体験から抵抗感を覚える事柄を思い浮かべた。

ご当家との打ち合わせが終わって帰社しても、近所の方々が宇結krなどの役員をされる話し合いになった頃から「っボールペンを数本、半紙を10枚ほど、硯と筆をなんてことから香典を入れる箱はないかなんて要望の電話が懸かって来る。その度に出掛けていては能率が悪く、何とかしようと考えたのが必要な事務用品セットの用意で、当時に当たり前となっいた必需品あった針と糸用意も考えた。

そんな所からハウツー物の書物を観光背用と考え、初刊となった「お葬式と春夏秋冬」の草稿
始まった。

さて、ホテルは一般的に開く2食が多いが、私の浮く吐く目的からすると鵜う蝕も釣用で、それをおう担当者に頼んでいた。

原稿用紙はいっぱい準備しており、テーマが思い浮かぶ度に書き込むようにして二日目には結構充実した内容が溜まっていた。

午后11時頃まで取り組み、予想以上の物が構築れ、取り合えずお席らしく始めようとしたのは3日目だった、その日の昼食にびっくり。タイの塩焼き赤飯が出て来たからで「奥様からのお電話で今日は庵常備だそうでおめでとうございます」と言われ、それが妻の配慮であることを知り、窓から大阪市内の方を見つめ手を合わせ、より一層草稿に取り組んだ。

一応の構想が完成した時、ふと考えたのが自身が学時間がないこと。現在のお客様の対応から考えるとどうしようもなく、小学生となった娘が作文で「私のお父さんは夜中でも提灯やドライアイスを持って出掛けます」とかいていたように、年中無休で24時間営業と言う現実は限界だった。

そこで発想したのがお客様を減らすこと。発刊と同時に社名変更をすることにしたのである。それは「業者選び」を真剣にと言う思いも強く、もっと合理的な葬儀を考えようと言う背景もあり、かなりセンセーショナルな発想でもあった。

これらを御理解いただく必要があり盛大な出版記念会のパーティーを開催し、多くの方々に集まっていただいたが、社名の変更は衝撃だったことは当然だった。

与えtられた挨拶の中で新しい時代の葬儀二通いて思っていることを訴え、親の最期を贈る葬儀をもっと真剣に、業者エレア日がどれほど重要かを説いて、多くの人達の賛同を頂戴した。

そんな会社が現在も残っているのだから驚きだが、勉強する時間が出来て全国を回り学んだことは素晴らしく、私の人生の財産となっているし、あちこちにご仏縁が結ばれた喜びはただ手を合わせるだけである。

導師用の「お香」に超高級な物を準備し、「驚きました」とのお言葉を多くいただいた歴史もあるし、佐相壇も製菓会社と改革に取り組み誰もが納得できるオリジナルなものを創作し、それらは番組でも紹介されるようになって全国的に流行するようになった。

式の進行にオリジナルな提案をしたことも多く、全国から同業者がそのノウハウを求めて来社されるようになり、各地で講師として招聘されることが増え、北海道から九州まで行ってきた事実がある。

今日はそんな私の誕生日だった。娘から電話がありお小遣いを口座に振り込んでおいたと聞いて嬉しくなったが、ヘルパーさんが帰られた後に妻のと一緒に阿倍野に出掛け、私のお気に入りの「明石焼き」を食べて来たが、今日はあべのハルカスの感性0年目の記念日だそうで、何かイベントが行われていた。

「タコ抜きの明石焼き」をオーダーするのだからびっくりしていたが、美味しかったと言ってくれたので嬉しかったし、「誕生日だからここの会計は私が」とご馳走になってしまった。

タクシーで自宅まで帰ろうと思ったが、ずっと不眠で困っているので歩いた方がと考えンの宇治駅まで戻り、環状線で寺田町へ帰ったが妹はのまま大阪駅まで野って行ったが、無事に帰ったのだろうかと気に掛かる。
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