2023-12-27

振り返れば  NO 10072

前号で触れた広島から書留が届き開けたら香典だった。「塾生一同」とあったので恐縮したが、またお返しをどうするか考えたい。

昨日は区役所に行って葬祭費の請求書類を出したが、診断書や火葬場での火葬証明ではだめということで、今日昼からもう一度行ったら、会葬礼状を持って来てくださいと言われたので友人の割烹へ立ち寄って貰って来た。

明日は予約してある年金事務所に行くが、家族が亡くなるとその後の対処が大変だ。

妻はある意味「天然」であった。友人と団体旅行に行くと新大阪駅に行ったが、明日だったと帰ってきたこともあったし、私が熊本のホテルから救急車で搬送された際に病室の携帯電話で「どこにいるの?」と聞かれたので救急搬送されて入院したと答えると「どこが悪いの?」と聞かれたので正直に「鼻出血が止まらなくなって」と返すと「なら大丈夫ね、私、今伊丹空港にいるの。これからレストラン協会の方々と奄美大島に行ってくるから」と言って切ってしまった。

私の人生で何度も入院したが、脳梗塞の1年前に腹部動脈瘤を発見して大手術受け、現役最後の頃に忙しくて日に2食の生活を続けていたら、喉の異変を感じ始め、微熱が続いたので毎日医院で点滴を受けてから出勤していた。

食事を飲み込むと激痛を感じ、それは水を飲むのにも問題が出てきて、喉の部分で一旦止まってしまうような症状になり、これは尋常でないと感じて会社へ行ったら微熱から高熱になり立っておられなくなり、近くの耳鼻科で診察を受けたら、鼻から内視鏡を入れられ、先生から赤十字病院へ行きなさい、紹介状を書くからと言われてびっくり。タクシーで病院へ行き、耳鼻科の窓口へ午前10時半に書類を提出したが、待合室は超満員で、名前が呼ばれたのは午後5時を過ぎており、何も食べていなかったのでフラフラして立てず看護師さんに車椅子で診察室へ連れて行って貰った。

また鼻から内視鏡を入れられ、喉の異変を確認された先生は「これでは食べられない。このまま入院だ」となって13階の病室へ入った。

次の日の昼頃から毎日先生が来られ深刻そうな表情で「原因が分からん」と仰るので「勝手に喉頭がんか食道がんではと思っていた。

毎日採血検査と点滴の対応だったが、4日目の昼に来室された先生の表情が明るくなられ「分かった。原因が分かった。栄養失調だった。鉄分と亜鉛の不足だから今日から点滴に成分をプラスするから劇的に改善すると思うよ」と言われたのだが、本当にそれから3日目に退院することが出来た。

鉄分や亜鉛が不足すると、口内炎ができることが多いが、その時は喉にその症状が出て大変だったことになり水も飲めない状態だったので一時はどうなるかと心配していた。

8年ほど前、医院の先生からの指導で第二警察病院で2週間の検査入院をすることになった妻だが、1か月経っても退院して来る気配はなく心配していたら担当医師から手紙が届き、信じられない「難病」の可能性が考えられるとあり、それを対処する病院は大阪大学付属病院しかないと言うことで、大阪万博の近くに会った病院へ入院することになり、毎日モノレールで見舞いに行っていたが、ある日妻から電話があり「明日に手術をする説明を受け、模型を使って解説を受けたと報告があった。

しかし、手術室で最終検査を受けたら対象物が消えていて手術の意味がないとなって病室へ戻り、最上階のレストランで太陽の塔を観ながら食事をしたことを憶えている。

その後にアポロビルの地下で倒れて警察病院に搬送され、第二警察病院に転院されたが、6年前の年末に危篤状態になり、覚悟したことを憶えているが、正月明けにテスト的な治療を受けた劇的に改善し、大阪鉄道病院に転院し2年間過ごしたが、その頃にコロナ問題が出てきて天王寺駅が閑散としており異常な状況。病院も玄関が締め切られ、守衛氏s津を経て上階へ行った。

携帯電話を申し込んで妻と会話を考えたが、機械音痴の妻の性格では無理みたいで、高額なスマホを返却することになった。

その後に施設へ入居することになったが、老々介護も限界だったことからだった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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