2019-12-12

昔のこと  NO 8656

グリル「ポッケ」の野菜サラダ 病院でスタッフの皆さんと明日の打ち合わせを済ませて桃谷駅へ戻った。商店街を通って何度か入ったことのある「サボテン」に立ち寄り、「魚フライ定食」を食べた。

隣のテーブルの上にあった朝刊を取ると、半世紀前の写真が掲載されていた。それは上本町6丁目から鹿児島に向かう長距離帰省バスの光景で、この年から初めてバスが運行されたニュースだった。

当時は新幹線だけではなく、高速道路もなかったので国道2号線から3号線を只管鹿児島に向かって走行したらしいが、所要時間が26時間とあってびっくりした。

年の瀬になると大阪駅に列車のチケットを求める人が殺到するテント村の光景を思い出すが、この時期になると忘れられない人物のことを思い出してしまう。

彼は中学校を卒業して集団就職で来阪し、近くにあった卓球場に通うようになって知り合ったのだが、いつも規制するためにチケットの入手に苦労していた。

福岡県の英彦山の近く出身だったが、癌を患って20代で亡くなってしまったが、彼に頼まれて恋文の代筆をしたこともあって私の青春時代を語るのに欠かせない人物だった。

厳寒の時期に名神高速道路を通って大垣に一緒に行ったこともあるが、急に降り出した雪で路面が真っ白になってしまい、大垣のインターを降りて道路下のトンネルみたいな所で夜が明けるのを待ったが、エンジンを掛けたままでも寒くて堪らず、抜け出して国道を走行したことも憶えている。

彼に頼まれて城崎温泉の近くに行ったこともあった。円山川の土手の道路を走行していた時にパンクに気付き、降りてスペアタイヤを取り出していると、彼が「こっちもパンクしているぞ」と別のタイヤを指さしたのだが、取り出したスペアタイヤもパンク状態になっていて近くの民家の電話を借りてガソリンスタンドに修理のお願いをしたら、1時間ほど経過してから来てくれたが、「3本もパンクしているとは珍しいですね」と言われた体験も忘れられない。

やがて修理が終わって大阪に向かったが、北条という地名だったと記憶するが、狐につままれたような出来事にびっくりした。下校する女子高生の制服が珍しく茶色だったぼだが、それから1時間以上も山道を走ったのだが、また茶色の制服姿の女子高生を見付け、この辺りの高校の制服は茶色なんだと語り合っていたら、同じ場所に戻っていたことに気付いた。

どちらが日本海側、瀬戸内海側かも分からず闇雲に走行していたものだが、お陰で2時間ほどロスをすることになり、2号線に出た頃には日が落ちていた。

前述した鹿児島行きのバスの所要時間26時間のことだが、16歳の時に西鹿児島駅から東京行きの急行「霧島」を利用して大阪まで戻ったが、午後に出発をして朝の9時頃に大阪駅に到着したことを記憶しており、当時はSLだったのでトンネルの中は最悪で、帰宅して鏡を見たら


煤で真っ黒だったことを憶えている。

確か所要時間が20時間ほどだったと思うが、その列車が東京駅に到着する前に同じ列車が西鹿児島駅を出発するという事実があり、西鹿児島駅と東京間は24時間以上を要する現実を顕著に物語る事象であった。お

最近の高速道路を利用する高速バスは熊本回りで人吉を経て鹿児島に入るが、宮崎県側を大分県に北上する国道10号線で別府まで走行した体験があるが、あちこちに掲げられた「高速道路の誘致を!」という看板を誰よりも実感した体験でもあった。

多くのバイパスがあったが、期待して利用すると当て外れが多く、中途半端で逆に遠回りになったケースもあり、ずっと敷かれた黄色いセンターラインが恨めしく思った。

九州自動車道の完成前で忘れられないことがある。林田温泉に行くことになり、交流のあった中学校3年生の同級生が工事の責任者になっていることを憶えていて、工事現場に立ち寄って再会したのだが、彼が「何処から来た?」と行ったので人吉を通ってと返すと、途中でループ橋があっただろう、荒れも僕の担当だったと教えてくれた。

彼はその後に四国の高速道路も担当していたが、大手の建設会社に天下りをして知られる企業の役員になっていたことも知った。

今日の写真はグリル「ポッケ」の野菜サラダを。
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