最新 最古
2002-12-31

感謝、そして合掌    NO 300

今日は、今年の最後の日。大晦日と呼ばれる夜、全国各地で除夜の鐘の音が響き流れるだろう。

 私は、永年の習慣で、あるお寺様の除夜の鐘のお手伝いをしている。

 「除夜は1年の最後の夜ではなく、新年の始まりであると考えなさい」と、教えてくださったお寺様がおられた。また、老僧のお説教で、「新年を迎える午前0時0分1秒まで起きているのが除夜作法。そうしなければ白髪になるぞ」と拝聴したこともあった。

 ある社会学の専門家の講義を受けた時、面白いことを言われたことが印象に残っている。

 除夜の鐘の数「108」が、仏教に基く説の他にたくさんあるそうで、12ヶ月、24節気、72候を合計してもそうなるとおっしゃられた。

 お寺様に教えていただくと、すべてが108の煩悩となり、人間の抱く36の煩悩が「過去・現在・未来」で3倍になると108になるという教義だった。

 去年の暮れだったと記憶しているが、出前をしてくれた蕎麦屋のおばさんが、「最近は、年越し蕎麦なんて少なくなってね。ラーメン屋さんの方が忙しいのよ」と言われ、社会の中での風物詩にも変化があることを学ぶことになった。

 さて、お寺での除夜の鐘だが、多くの方々がやって来られる。それこそ老若の善男善女で、中には「突いていこうよ」と、偶然に通りすがった人達も多い。

 鐘楼門にぶら下がったロープ、これをタイミングよく引っ張るのは簡単ではない。鐘が割れてしまうような悲鳴を上げる強さで突く人。タイミングがズレ、全く鳴らかった人も少なくないが、「もう1回、いいですか?」という人が、毎年30人はおられるだろう。

 鐘楼門に飾られた仏事用具の前で、ご住職が定められた法儀を執り行われ、そこから皆さんの鐘が突かれるのだが、一人一人がご住職に合掌される姿が美しく、何度見ても素晴らしい光景である。

 今年を象徴する字は「帰」であった。新年のキーワードは「再生」と新聞に記載されていたが、我々葬祭業には不変の文字「愛」と「癒し」が存在している。

 私は、大晦日という風習に「茶の間」というあたたかいイメージの言葉を思い浮かべる。家族や茶の間は「愛」の絆で誕生するもの。大切な方を亡くされた家族にも新年が訪れる。
 
 そこに大切な方が存在しなくなっても、大切な方は思い出を分かち合った人達の心の中で生きている。

 私は、この原稿を打つことが出来るのは、生かされているからである。ご訪問をくださるあなた様も生かされいるからご笑覧いただけるのです。

 今年の3月1日、新アドレスでのHPを発信し、この「コラム」を始めました。なんとか年内にと念願していた300号に至り、ほっとしています。

 私は、今日の除夜の鐘に誓うことがあります。それは、何れ、このページで報告いたしますが、午前0時から「挑戦」が始まるとだけお知らせ申し上げます。

 ご訪問をくださいましたあなた様に衷心より感謝の心を捧げながら、新年のご健勝とご多幸を祈念申し上げます。

 2002年の結びですが、私が大切にしている好きな言葉があります。

 『涙は、悲しいから生まれるものではない。生きているから生まれるのである。涙は、生かされている証し、輝きなのである』

 どうぞ、皆様、涙の色のように澄んだお心で新年をお迎えになられますよう。  合掌
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net