2004-02-18

玉子焼き   NO 705

お寺の本堂で縁側を歩く。日差しが当たっている部分が靴下を通してあたたかい。それは、もう春の兆し。

 過ぎゆく冬の厳しさと、やって来る春の穏やかさが鬩ぎ合う早春の季節。そんな中、悲しみの強い葬儀を担当申し上げた。

 朝から、昨夜に承ったあちこちの葬儀にスタッフが走り回っている。遠方のお寺で行われる設営も重なり、「安全運転で」と声を掛けて送り出す。

 事務所内が落ち着いた頃、今日の葬儀の担当女性スタッフから「司会をお願い出来ますか?」と言われる。

いかにも申し訳なさそうな表情。そこで「任せなさい」と応えたが、幾つか条件を付けることにして、そのひとつが現在までに知り得た故人やご遺族の情報をメモ書きさせ、ナレーションを担当させるということだった。

 「もう、用意してあります」、それが彼女の返答。手にはしっかりとポイントを捉えた取材表があった。

 時計を見ると創作時間のリミットは28分。3分30秒バージョンを考え、取材表の中にあった「玉子焼き」をキーワードに持っていった。

 料理がお得意だった故人、中でも玉子焼きの味は特別だったそう。塩や砂糖など、隠し味的なことは教えられず、味だけがそのまま形見となったご不幸だった。

 出火による犠牲者となられた故人、区画整理が進められている入り込んだ住宅事情も災いし、消防車が26台も出動したそうだが尊い命の火が消されてしまった。

 さて、葬儀での彼女のナレーション。畳の上に正座をして語っている。<あれでは発声が苦しいのに>と思ったが、それは、きっと彼女の遺族に対する心情がそうさせたと考え、そっとしておいたら、やはり苦しいようで立ち上がった。

 取引先の方の嗚咽が聞こえる。もちろんご遺族は涙の世界。私は「お涙頂戴」が大嫌いだが、玉子焼きと「お孫さん」の存在という命の伝達がグッと来られた様子。

真っ赤な血液が透明な涙に変わるまでのプロセスには「心身を守る」という作用もあるが、一流の司会者でない人たちがされる「お涙頂戴」とはレベルが異なることだけはご理解願いたいところ。

 涙は悲しい時にだけ流れ出るものではない。涙は感情が極まった時に生まれるもの。人が生きている、生きなければならない「証し」「輝き」なのである。

 葬儀の終了時、そんな言葉で閉式を結んだが、お二人のお孫様をお見守りくださるようお念じ申し上げた。

 今日、ご参列をいただいた皆様、どうか玉子焼きを召し上がられる時、故人のことを思い出してくだされば何よりのお供養なのです。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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