2017-09-24
段々視力が落ちて NO 7982
早朝の喫茶店、久し振りに「温泉博士」と呼ばれる友人と会った。知覚障害からか両足の0膝から下が冷えて困っていると最近の悩みを訴えたら、絶対お勧めの温泉があると教えてくれた。
それは北海道に道南にある温泉なのだが、車で行くなら問題ないが、JRを利用すると大変不便な現実があった。
在来線の特急列車の停車駅で普通列車に乗り換えるのだが、50分も待ち合わせをしなければならないのだから想像するだけでも大変である。
普通列車しか停車しない駅なので仕方がないが、周囲の地図を調べたら3ヶ所ほどの温泉地があったが、部屋や料理の条件がマッチしないのでもっと広げて探している。
ここからは「幸せ列車」の「10年前の独り言」から転載を。
ちょっと昔に? NO 1983 2007-09-23
自民党総裁選がいよいよだ。漫画が大好きという麻生氏が劣勢のようだが、果たしてどんな結果になるのだろう。
昨夜、テレビのチャンネルを押していたら、ふと目に留まったのが「何でも鑑定団」で、個人的な趣味から漫画のミュージアムを開設された人物が登場していた。
そこで蒐集された漫画は一般的なものではなく、我々団塊世代が「三丁目の夕日」時代に通った「貸本専門店」に置かれていたもの。紹介された数点を見ながら懐かしさが込み上げてきた。
小学校3、4年生時代のことが印象に残っている。貸本店の息子とソフトボールを通じて友達になり、いつも店内で読み耽ることが許されていたから。
その店は、奥の方で一卓だけだが鉄板設備のある机があり、そこで1枚5円というお好み焼きを焼いていた。
鉄板の油引きに用いられていたのは軍人用のゲートルを巻き上げたもの。それがそこのオヤジさんのご自慢だった。
当時に人気があったお菓子は「ポン煎餅」で、直径7センチぐらいのものが8枚で10円。駄菓子屋には子供達が興味を抱くような世界がいっぱいあり、中でも注目を一心に集めていたのが抽選で何が当たるかという類。ハズレと当たりの格差がひどく、射幸心を煽る仕掛けにまんまと填まっていたみたいだ。
紙芝居も人気があった。自転車のオジサンとオートバイのオジサンの2人が定期的に登場し、5円、10円の品物を買って眺めていたが、自転車のオジサンの方は、買わない子供達を追い返すことなく自由に見せてくれ、「いいオジサン」と人気が高かった。
紙芝居の番組は3本立てだったと記憶している。1本で8枚ぐらいで構成し、「続きは次回のお楽しみ」が決まり文句。その間にクイズが3問ぐらい挟まれ、解答したら景品をくれるのだが、コツを知っていた私は答え過ぎて発言禁止の令に。代わりに無料で景品を貰っていたのでラッキーだった。
現在の大阪のミナミには「たこ焼き店」がいっぱい存在し、中には8個で300円というところもあるが、当時の近所の店では8個で10円だったのでびっくりするし、屋台では夜間の照明にカーバイトを燃やす店も多く、あの独特の香りもはっきりと記憶している。
街中をオート三輪が走り回っており、ダイハツやマツダより歴史の古い「くろがね」や「みずしま」という車種もあり、それぞれがそれぞれの排気音を発していた。
しばらくした頃、バーハンドルの「ミゼット」が登場、続いて丸ハンドルの「ミゼットMP」が出てきた。
幹線道路以外は地道だった時代、廃材を燃やした灰が捨てられていた背景もあり、釘を原因とするパンクが信じられないぐらいに多く、自動車修理店が1日に何台もパンク修理を担当していたのも覚えている。
車の進化は素晴らしい。エンジンがコンピューター制御され、故障なんて考えられない現在だが、当時はプラグの電気位置の変化をいつもチェックしなければ調子が悪く、煤でも溜まればすぐにエンジンストップという不便があり、プラグ交換とパンクによるタイヤ交換なんて誰もが出来たものである。
結びにタクシー料金のことを書いておこう。昭和30年代の中頃は、初乗りで小型が70円、中型80円だった筈。ニッサンのダットサン、日野のルノーなどが小型で、観音開きのドアだったクラウンが中型。もちろん冷房車なんて想像もしなかった時代であった。
今日の写真は大分県豊後高田市にある「昭和の町」で撮影したもの。上述の懐かしい車が並んでいた。