2007-04-17

昔の反省から  NO 1837


 ある会合で講師を担当、結びの前に事故で亡くなられた方々の葬儀の悲しみについて話し、昨号で書いたJR福知山線事故の慰霊式のことに触れた。

 あんな傲慢な姿勢で企画を進め、新聞各紙に大きな黒枠広告を掲載するとは理解できないと発言したら、受講されていた方々が頷かれている。しかし予定時間が迫っていたのでそれについて結論を出した。

「遺族会が主催するのが常識。JR西日本の社名と社長名は別枠にすべき。そこに謝罪文に併せて改めて安全に努める宣言、そして右記のように慰霊式が行われます。どうぞご献花やご記帳を」となるべきと断言したら拍手が生まれた。

  JR西日本は500系の「のぞみ」を登場させた頃は活気が感じられたが、東海から700系が登場した頃からトーンダウンしたようで、JR北海道の副社長が 先頭に立って開発されたバスで線路を走行させる画期的な挑戦のニュースを観ながら、西日本の現状が余計に情けなく感じてしまった。

 さて、塾生の一人のブログに「ヨイトマケの唄」のことが書かれ、歌詞の紹介も記載されていた。その意味については誰もがご存じと考え割愛、それに関する私が幼かった頃の社会背景を少しだけ紹介申し上げる。

 その日の職を求めて多くの労働者が集まる場所として有名なのは、東京では「山谷」、大阪では西成区の通称「釜ヶ崎」、現在の「あいりん地区」であり、その両方で大規模な暴動が起きたもとも有名である。

 私が生まれた昭和22年、日雇い労働者の日給が240円と定められた歴史があったが、昭和31年には三国廉太郎さん主演で「ニコヨン物語」という映画が日活で制作され、次の年の昭和32年に初めて100円硬貨が登場した社会状況があった。

 昭和の時代が最近に言われる「三丁目の夕日」の時代に突入する頃だが、当時の大人達からニコヨンについて「100円玉2個と10円玉4枚だからニコヨンと呼ばれる」と教えられた記憶もあるが、今なら間違いなく差別用語として扱われているだろう。

 戦後復興の社会、何処でも日雇い労働者が働く姿が見られたものだが、確か中学1年生
の時だったと思うが、下校時に目にした光景が印象に残っている。

 その日は土曜日、校門を出て地道をしばらく歩いて行くと前を歩いていた一人の女性が立ち止まった。<!?>と思って100メートルぐらい先を見ると道路工事が行われ、道路脇に積まれた太い土管の上に腰掛けた労働者達数人が食事中のようだった。

 女性が立ち止まったのは、きっと「冷やかされる」と思ったからだろう。その人は誰が見ても分かるぐらいにお腹が大きく「おめでた」である体裁も気になったと推察する。

 その先で起きるであろう嫌なこと、起こって欲しくない出来事ぐらいは想像できた私だったが、どうすることも出来なくてそのまま止まることなく歩いて行った。

 気がつくと、彼女が私のすぐ後方に着いて来ている。もう数十秒後に何かが起きる状況にある。私もそれまでに体験したことのない複雑な思いを抱きながら、何も声が掛からないようにと願いながら足を速めた。

 オジサン達は前方の左側に10数人も座っている。彼女は私の右後方、そしてその問題の場所の前に至った。

 オジさん達は、我々2人が近付くのを注目しながら食事をしていた。そして恐れていた声が掛かった。ドキッとして走り出したかった心境。その声は今でもはっきりと覚えている。

「ねえちゃん、もうすぐ誕生みたいやなあ。しっかりと元気な子供を産みや」「躓かんように歩きや。栄養のあるものをいっぱい食べなあかんで」

 それらは、すべて予想外の言葉だった。勝手に嫌らしい「冷やかし」の言葉をと思いこんでいた自身に恥ずかしい思いを抱いた出来事だが、彼女は「有り難う、元気な子供を産みます」と、立ち止まってそのように小さな声で返礼した。

「ヨイトマケの唄」と「ニコヨン」のことを見聞きすると思い出すのが上述のこと。私の「三丁目の夕日」時代のひとこまである。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net