2006-08-10

ウグイス嬢?  NO 1592


 大病院の待合コーナー、ざっと数えて120席の椅子があるが、空席は2割ぐらい。内科の一部だけでこの状態なのだから、各診療科の数を掛けたら驚く人数となるだろう。

 同じ階に小児科がある。赤ちゃんや幼い子供達の病の泣き声は何より辛いもの、孫を思い出しながら治癒を祈って掌を合わす。

 受付窓口の横に休診日や医師の変更情報が掲示されている。ここも交通機関と同じでお盆も正月もないところ。病気に日曜日や祭日はないのである。

 高齢の方が車椅子で前を通られる。息子さんや娘さんらしい方が押される光景もあるが、やはりご主人や奥さんの方が多く、自身の姿に想いを重ね、ふと「伴侶」という文字を思い出す。

 気が付けば互いが年寄りになっている。何処かへ出掛ける際に互いで「薬は持ったか?」という会話があり、「何処かが悪かって当たり前」というのが我々団塊世代の合言葉みたいになっている。

 ある友人夫婦が盆栽趣味に填まっている。そんなことをするとは想像もしなかった夫婦だが、「齢を重ねると趣味と人生が重なる」なんて高説?を聞かされた。

  ちょっと怪しい記憶で間違っていたらごめんなさいだが、確か夏目漱石先生の書かれた手紙だったと思うが、段々と周囲に素敵だという人が少なくなってしま う。それに合わせて木や草など気にも留めていなかった自然の美しさを感じるようになる。というようなことを読んだ覚えがあり、彼ら夫婦がその胸中にあるよ うに妙に納得をしているこの頃だ。

 人は、その生涯を死ぬまで「育む」意識行動で進むもの。この言葉の意味は子孫や弟子など自分以外に対する行動を言うが、ある一定の年代から無意識に自身の心を「育む」世界を迎えることになり、それらが趣味の拡がりにつながるのかもしれない。

 動植物の「命」を慈しむこと、周囲に多くの死の事実を体験して自身の「生」を遅咲きに感じること。そこで宗教の存在に気付き急激に帰依していくケースも多いし、気付かされる結論として「残される日々を有意義に」となるのだろう。

 あれっ?、何やらややこしい方向に進んでいるようで方向転換。葬儀の司会者の皆さんにプレゼントとして書こう。

 弊社は「思い出を形見に」というコンセプトを重視しており、進行の中で参列された方々に「故人のことが印象に残る」アナウンスを大切に考えている。

 昨号に書いた「長崎の鐘」もそうだし、今、甲子園球場で行われている高校野球だって強烈なインパクトになるテーマとなる筈だ。故人にとって「思い出してもらえること」が何より嬉しいことで、それこそ供養につながると確信している。

 弊社が加盟する日本トータライフ協会のメンバーや、久世塾の塾生なら「高校野球」と書いただけで「そうか!」と、瞬時にシナリオ構成が出来るだろうが、ナレーションばかりを重視しているようではこの意味は理解出来ない筈。

 メンバーや塾生の発信するブログやコラムを訪問すると、みんな真剣になって勉強をしており刺激を受ける。

 ヒントは、上述のコンセプトということである。さて、どんなアナウンスを組み上げるのか、どうぞ皆さんの個性と感性が活かされる原稿で、参列される方々にあたたかいハートが伝わる空間が生まれることを期待しております。

久世栄三郎の独り言(携帯版)
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