2016-09-18
時が流れても NO 4979
「幸せ列車」のHP各駅停車のコーナーに管理人さんのご厚意で「10年前の独り言」を紹介いただいているが、昨日の号を見ると10年前と変わっていない世の中を感じてしまった。
そこでその号を懐かしく再掲を。
台風接近を前に NO 1630 2006-09-17
これまでに「戦争と宗教は、人を変える」と何度も書いてきたが、その典型的なケースとして顕著な「オウム真理教」の教祖の裁判が終わった。
まだ、他に多くの被告が存在するし、未だに解散せずに信者がいるとは常識では考えられないが、それが「宗教」が「宗狂」だった恐ろしさを何より物語っている現実であろう。
多くの被害者の行き所のない怒りに同情しながら、「人の世は、いつ地獄と化す危険性があるか分からない」と認識し、道を歩く際に酔払い運転の被害にも遭わないように気をつけなければならないこの頃だ。
被害者の家族の立場を察するとずっと時間が止まった状態に陥るもの。「生活していた部屋もそのまま」というケースも少なくないだろうし、<なぜこんな事件が!?>と理解出来ることなく悲痛の日々が続く気の毒な現実が待っている。
最近、分裂した側の代表である上裕元広報担当の映像をニュースで観ることがあるが、事件当時の光景で、彼を芸能人のように追っ掛ける若い女性達の姿こそが 「世も末」、終末思想ではないかと感じていた人も多かった筈だし、選挙活動で「象」のキャラクター・イメージで登場してきた姿に「ゴッコ的」な哀れみさえ感じ、荒唐無稽な行動から反社会的妄想の実行に移った歴史は未曾有の出来事だった。
地下鉄サリン事件が発生したのは阪神淡路大震災から2ヶ月も経たない頃。朝のテレビニュースで異常な事件が起きていることを知ってから出勤したが、先に出社していた女性スタッフ達は遠方からの通勤、そこでその事件の発生を知らなかった。
そのあらましを伝えると皆がびっくり、「間違いなくオウムの仕業だ」と言ったら、「宗教が人を傷付けるなんて信じられません」と真剣な表情で反論してきた社員もあった。
そこで言い切ったのが冒頭の言葉、それがオウムの犯罪と断定された時には社内で大きな話題になり、「社長の推理は凄い」なんて会話が取引先にまで広がった。
誰も想像出来ない喜劇型組織が「宗教」という蓑に隠れ、被害者という悲劇の主人公をいっぱいつくってしまった行動は絶対に許されることなく、実行を許してしまった国家や社会環境、そしていつの時代にも愚かなテレビというマスメディアの責任も真剣に考えなければならないだろう。
喫茶店の常連である長老が興味深いことを仰った。「ITビジネスで問題事件を起こしておるのも同レベル、わしには六本木ヒルズの建物がサティアンに見えてならんのじゃわ」と。それを聞いた人達がシーンとなった。
サティアンとは久し振りに耳にした言葉。教団施設が集まっていた村の光景がはっきりと思い出されて来る。信者達が座禅を組む光景を何度も映像で観たが、それは無我の境地に至るがための「かたち」ではなく、ただ誰かが決めたことをやっているだけのように感じたのは私だけなのだろうかと疑問を抱く。
単純な見方からすると、曹洞宗に於ける座禅は壁に向かって座するし、臨済宗では壁を背に座するが作法であり、ここでは割愛させていただくが、それぞれに納得に至る理由があるからそうしているのであり、オウムの座禅とは異質の世界であると知りたいもの。
こんな事件を起こす宗教も嫌いだが、戦争や争いそのものが大嫌い。今日は、そんな気分を少し和らげてくれるテレビ番組を観た。NHKらしい企画構成で「あの夏~60年目の恋文 少年の日の初恋がいま蘇る」というタイトルで、終戦前の小学校で過ごした先生と生徒の短い期間の出来事、それが奇跡の「えにし」に 結ばれて文通に進み、そこから再会に至った人生ドラマは脚色や演出のないまさに人生ドラマ。
戦前、戦中、戦後に秘められたそれぞれの人生の重みを感じ、交わされる書簡の文章の美しさに、日本の美と礼節が見事に滲み出されていたことが感激に値する内容だった。
明日の大阪の予報は雨模様、歓迎したくない大型台風が九州に接近中。被害に遭わないように臆病になって対処されることを願っている。
あれから10年経ったが、まだこの世に存命してこの「独り言」の発信を続けている。今日の「小説 女将シリーズ」では女将と若女将が葬儀に参列したストーリーにした。
今日の写真は過日に利用した近鉄特急の車内で撮影した1枚。観光特急「しまかぜ」満席で予約が取れなかった。近鉄南大阪線では観光特急「青のシンフォニー」が登場して話題を呼んでいる。これも予約が難しいようだが、いつか利用してみたいものである。