2002-07-17

語呂遊び   NO 137

「生きている」「生かされている」との考え方の相違で、その人の人生観は大きく変わる筈。

 私が「生かされている」と思い始めたのは19歳の頃。交通事故で奇跡的に助かったからである。

 振り返ってみると、その事故には不思議なことが幾つもつながり、これだけでも小冊子一冊が完成するだろうが、ここでは割愛させていただく。

 世の中に「プラス思考」「マイナス思考」という、人の性格を分類する言葉があるが、冒頭の言葉にも関連していると思われてならない。

<なんで、自分だけが>というように、人は悲劇の主人公に陥ることも少なくないが、そんな時に、与えられた「試練」だと受け止める発想転換が出来ればと努力している。

 ある講演の「枕」で、ゴルフの話をしたことがあった。ティーグランドに立って攻めるコースを見る。ティーショットの落ちるあたりに嫌な池とバンカーがある。

 そんな時、<あそこに行くかも知れない> <嫌なハザードは2割で、8割の世界が広がっているではないか>。そんな両極端の考え方の相違で、成功率や結果に大きな変化を与えることになる。

 ディボット跡に入ってしまって打ちづらいボール。そんな時、「なんと、ついていないのだ」と、自身の運のなさを恨むもの。
しかし「これは神様から与えられた試練。1打の損で、何処かでプレゼントもいただける筈」と考えると気が楽で、奇跡的なプレゼントを多く頂戴する体験もしている。

「災い転じて福と為す」という諺があるが、ミスや試練との遭遇はそんなチャンスでもあり、人を大きくさせてくれることは確かなようだ。 

 文字遊びで恐縮だが、「葬儀」には財産を争う「争儀」もあるし、義理の会葬者による「騒儀」もある。最近に流行の無宗教形式では、私は「爽儀」というイメージで「葬送」を「爽創」している。

 これから歩む「道」。それは「未知」であるが「魅知」であって欲しいと願うし、来世が「美地」であるように祈っている。

天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六趣(六道)。人は地獄、極楽の話が好きなようで、多くのお説教やご法話を拝聴したが、その中で印象に残っていることがあった。

 来世のターミナルステーションで列車の行き先を見てみると、地獄道行き、餓鬼道行き、畜生道行き、阿修羅道行きしかなかった。

そこで駅員さんに「極楽行きはないのですか?」と尋ねてみると、今日の発車はないとの返事。

「では、いつ、出発するのですか?」

 そんな問いに、明確な答えが返ってきた。

「明後日の6時です」・・・・「名号六字(南無阿弥陀仏)」  失礼申し上げます。 
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