2007-03-03

がいば爺ちゃんのご意見  NO 1794


 芸術の世界は奥深く、我々凡人では理解することが出来ず、ただ「衝撃」と感じていた作品が著名な人物の作と知ると「驚愕」から「驚嘆」や「感嘆」に急変することになるものだ。

 世界的な建築家として有名な安藤氏の設計に、有名な茨木市の教会がある。随分前だが、ここで行われた葬儀を担当したスタッフが帰社して「びっくりする教会です!」と説明を始めたのだが、社内にいた全員がどんなものか誰も理解出来なかった出来事があった。

 その教会だが、コンクリートの打ちっ放し。シンボルとなる十字架が打ち抜かれた設計で外の景色が見えるという世界、当然エアコン効力の基本であるに寒風と酷暑の「遮り」はなし。それを耳にしただけでイメージするなんてことは難しいことだろう。

 一方で、今、東京都知事選挙で黒川氏の立候補が噂されているが、黒川氏の設計もグローバルな世界があって社会認識が高いようだ。

  ある時、講演の依頼があって東京から新幹線に乗り継いで地方に行った。迎えの車の中で話題になったのが黒川氏が設計されたという講演会場で、到着するまで の約1時間、設計依頼から完成までの経緯を拝聴し、そこに秘められたドラマが「創造」という世界に対する興味を深めてくれた。

 地元では知らない人はないという建物、到着してから中を全部見学させていただいたが、それこそ<!?>の世界。その建設費用を伺って驚愕の度合いが一気にアップ。その話題を講演の「まくら」として用いるシナリオを構成したことを覚えている。

 昨号で「心のオシャレ」という言葉を使用していた。「洒落ている」なんてものは著名人だけが許されて高い評価を受け、一般人ならコテンパンに非難されることが多いようだ。

 これらは葬儀の形式にあっても顕著で、芸能人だから許されるが、一般人なら嘲笑から侮蔑のレベルに至り、取り返しの付かない問題に発展してしまう危険性があると知って欲しいものである。

 過去ログに書いた「生前葬」もそうだろうが、私が提案した「人生感謝の夕べ」ということを外れ、吉本的レベルで行ってしまうと羞恥の極みとなるだろう。

  新聞に「訃報告知」について興味深い記事があった。故人の思想から葬儀というものを行わず、交流があった人達に「気持ちがあれば妻と娘に手紙を」という通 知を掲載されたみたいだが、これもある程度経済的に恵まれた著名な人物でなければ出来ないことだし、賛否両論喧しい問題提起で、大きな話題を呼んだことは 事実である。

 このケースで私が心配するのは世の中の裏面の現実。生前の交流への感謝と遺族への弔慰を伝える手紙だけではなく、匿名の批判的な手紙も届くことになり、結果として励まされると共に新たな悲しみが生まれるということが確実だからだ。

 最近に流行の家族葬に対する批判も高まってきている。我々業者は、お客様のご要望にお応えするのが仕事だが、そこに起こりうるであろう最悪のシナリオの説明も重要で「葬儀」がちょっと間違うと「争議」になると知りたいものだ。

 数日前の喫茶店談議、そこで「家族葬」がテーマとなり、「友人にも知らせず社会から勝手に『さようなら』をする権利はおかしい。生きた以上、そこに何かの義務が存在する筈だ」と発言された長老がおられた。

 これは、一理ある考え方だ。この世に生を享け、多くの人に接して人生を過ごす「人の世」だが、送られたくない権利と送りたい権利の戦いもあろうし、何より「有り難う」「さようなら」の義務だけは?と考えさせられた重い一言であった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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