2004-06-19
台風を前に NO 826
死が遠ざけられ、葬儀が忌み嫌われてきたのは誰もが「死にたくない」「長生きをしたい」という思いがあるから。
自身の死、家族や朋友の死、それ以外は他人事という説があったが、ちょっと顔を出して焼香をしたらという「作法レベル」でしかない行動なのに妙に納得が生まれ、自身に「この日が訪れる」ということをすぐに忘れてしまうのが普通のようだ。
そんな葬儀に携わる我々葬祭業だが、葬送の日を終えても通夜や葬儀のことははっきりと記憶しているもの。<火葬場で泣き崩れていたお孫さん、落ち着いたかな? 学校を休んでいないだろうか?>なんて心配も生まれている。
昨日「どのように生かされるべきか?」と偉そうなことを書いたが、「どのように死を迎えるべきか?」ということも大切なこと。死が神仏の世界や共同体のものでなく、自身という個人的なことである以上、他人事ではない事実を心して日々を過ごしたいもの。
「どう生きるか?」の前に「死ありき」を知ると、間違いなく人生観が変わる筈。入り口から勝手な判断をすることなく、客観的に出口から遡って考えると思い掛けない発見があるもの。それは、ドラマの脚本を描くプロデューサーのような趣を感じる体験ともなろう。
高齢社会の到来は、得てして死の日常化傾向に進み、ますます「死の重み」と「生の意義」を希薄化させてしまう恐れがある。
人は「個人」として尊いもの。「故人」になるまで与えられた「生」を責務として全うしなければならない。
告別で流す涙は、別れの悲しみである感情現象と共に、やがて自身に「この日」が訪れるという哀れみでることを知りたいもの。
葬儀の悲しみは万国共通だが、情報社会の中で葬祭サービスの多様化と個性化が潮流と言われても、何でもグローバルに考えるべきでないと提言したい。
葬送の文化に地方の慣習があることを忘れたくない。その地独特の習俗を理解する感受性を抱くのもプロの仕事。
そんな世界は「グローバル」ではなく「グローカル?」と言えるかも。なぜ、そんな風習が生まれたのか? どうして今日まで続いているのか? そんな素朴な疑問から謙虚に学んでみると、人の世の「情け」というものも教えられる。
地方での葬儀の司会や講演活動で得られる習俗は、私の仕事にあって大切な宝物ともなっている。
さて、いよいよ台風の到来だ。担当スタッフが「1日延ばされたらいかがでしょうか?」というお客様があったが、明日のお通夜、明後日の葬儀で「決行」されるそう。
ご親戚たちが来られる飛行機に「欠航」がないことを祈っている。